夢の極地に旗を立てた男 – 日本史コンシェルジュ
南極には「白瀬海岸」「開南湾」という地名が存在します。日本人で初めて南極に上陸した探検隊の隊長と、彼らが乗っていた船の名が、それぞれの由来です。
白瀬矗は明治維新間近の1861年、現在の秋田県にかほ市で生まれました。寺子屋でマゼランやコロンブスの話を食い入るように聞いていた矗は、自分も探検家になって極地へ行くという志を立てます。
ちなみに、矗の幼名は「知教」ですが、極地探検の志を決して忘れまいとの思いから、18歳で陸軍に入隊した際に、「高く聳える」という意味の「矗」を自ら名乗るようになったのです。
1909年、米国の探検家ピアリーが北極点に到達したというニュースが世界を駆け巡りました。矗はショックを受けますが、「北極点が制覇されたのなら、次は南極点だ」と目標を180度変更。国の支援を期待できない矗は、民間から寄付を募り、不足分を借金で補うと、1910年11月29日、東京の芝浦を出航しました。
9人の探検隊員を含む27人が乗船した南極探検船「開南丸」は、わずか204トン。木造の漁船に鉄板を張り、エンジンを備えただけのその姿は、まるで大海原に浮かぶ木の葉のよう。途中、赤道付近の暑さで食糧が腐ったり、寄生虫が原因でそり用の犬を失ったり、一度は南極圏に突入するも、流氷とブリザードに阻まれシドニーまで引き返したりするなど、幾多の困難に見舞われながらも、出航から1年2カ月余りで南極に到達しました。
矗は5人の突進隊を組織し、南極点を目指しました。想像を絶する寒気と悪天候、そして食糧不足。途中で2台のそりが離れ離れになるという不運もありましたが、雪上に残された犬の血を目印に、再び合流できました。9日目、人間も犬も限界を超えたことを感じた矗は突進を断念。1912年1月28日、彼らは南緯80度5分、西経156度37分に日章旗を立て、「大和雪原」という美しい名をつけると、基地への帰途に就いたのです。
それから40余年が経った昭和30(1955)年、国際地球観測年特別委員会ブリュッセル会議で、日本の研究者たちは南極観測への参加を表明します。敗戦国の日本には、その資格はないと、各国は拒否しましたが、土壇場で日本の参加が承認されました。白瀬南極探検隊の実績があったからです。矗の人生を賭けた南極探検が、戦後日本を国際舞台に押し上げる一助となったのです。
白駒妃登美