共に見上げる月 – 成人へのビジョン9
おつとめ衣の裾を破ってしまいました。翌日は自教会の祭典日です。
「ごめん、裾破っちゃった! 直せる?」「また? この忙しいときに!」。妻の言う通りです。そこで、次のように言ってみました。
「ねえ、仮に“最高の奥さん”だったら、こんなとき、なんて言うのかな? ちょっと演技してみてよ」「……大丈夫ですよ、後で縫っておきますね」。グッときます。「最高だね。……俺の勝手な妄想だけど、究極の奥さんバージョン言っていい?」「何?」「あなたって、人がいいから、廊下で人に道をお譲りになって、きっとそのときに引っ掛けたんでしょう。大丈夫ですよ」
そして、こう続けます。「この最高の奥さんを1カ月続けてくれる?」。即座に「パンクするわ!」と妻。迷いのない清々しい返答でした。
さて、妻にこう言ったものの、「理想の主人」なら、どうしただろう? そう自問すると、はて、自分でも驚くほど思いつきません。最高の奥さんはパッと具体的なイメージが湧くのに、理想の主人は、てんで曖昧です。要するに、妻に求めるイメージばかりが強くて、夫としての目指すべきありようが空っぽなのです。これは恐ろしいことだと思いました。
翌朝、妻にそのことを打ち明け、話し合いました。「理想の主人のあり方は分からないけれど、お道をしっかり通ることで、自然と仲のいい夫婦になれるんじゃないかな」。それは相手の理想に合わすでもなく、自分の理想を追求するでもなく、道の理に自らを合わせていくこと。話していて、お互いストンと心に治まるものを感じました。
『天理教教典』には「一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せること」とあります。表面的にでも人に合わせれば、争いは避けられます。しかし、互いに心の底から幸せを感じられるかといえば、そうではありません。相手でも自分でもなく、神様をみる。月日は遙か遠くに見えますが、共に見上げると、何か通い合うものが生まれるはずです。道を歩む中に、いつしか二人の心も治まっていく。そんな実感があります。
祭典の日、妻が縫ってくれたおつとめ衣に、私は清新な気持ちで袖を通すのでした。
可児義孝