おやのことばおやのこころ(立教184年4月11日号)
しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
「おふでさき」三号38
なにゆハいでもしかとうけとる
2歳半の二男が言葉を覚え始めたころ、こんなことがありました。しきりに「ねんね、ねんね」と言うので、妻が寝室へ連れていこうとすると、本人は「違う」といった表情で冷蔵庫を指さします。どうも「牛乳が飲みたい」と言いたかったようです。
さらに面白いことには、こちらが牛乳パックを持って「ねんね」と言っても、キョトンとするばかりなのです。考えてみれば当然です。あくまで本人は「ぎゅうにゅう」と発音しているつもりなのですから。
ほんの笑い話ですが、ふと、同じようなことが信仰の世界でも起こり得るのではないかと思いました。親神様は、教祖の口や筆を通して教えを伝え、また子供可愛い親心から、折にふれてさまざまな形でメッセージを下さいます。私たちは、それらを聞き分け、身に付けているつもりでも、いざ行動に移したり、人に伝えたりする際に人間思案が混じり、結果的に神様の思いから離れた言動になっていることはないでしょうか。
「しんぢつにたすけ一ぢよの心なら なにゆハいでもしかとうけとる」
人だすけの心が真に定まっていれば、たとえ言葉にすることができなくても、親神様はしっかりとお受け取りくださいます。実に力強いお言葉です。
数カ月後、再び牛乳パックを指さすと、二男は「ぎゅうにゅう!」と、はっきり言えました。子供のささやかな成長こそ、親にとっては大きな楽しみです。
(さ)