「理を振る」という思案 – 懸賞エッセー入選作品
テーマ「かしもの・かりもの」を心に
上田秀昭 54歳・京伯分教会長・鳥取県米子市
教祖が十二下りのお歌に節付けと振付けをされたとき、「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない、理を振るのや」(『稿本天理教教祖伝』)と仰せられた。けれども、その「理を振る」というお言葉の意味するところが、物心ついてからしばらくは、さっぱり分からなかった。
26歳のとき、映画館で『ジュラシック・パーク』を観た。エキサイティングな映像もさることながら、劇中で「北京で蝶々が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起きる」という「バタフライ効果」について語られたセリフが、なぜかずっと頭から離れなかった。
そこで、「蝶々」の部分を、「てをどり」にスライドさせてみた。すると「十二下りのお願いづとめを勤めるときの、てをどりのひと振りひと振りで、遠くで暮らす友人の病気をたすけることができる」という言葉が思い浮かんだ。さらに、偉大な指揮者など、第三者に力を及ぼすときに、何かを「振る」ことも連想した。
おつとめを通して理を振る。すると手の先から小さな風が起こるように理が吹く。同時に足を踏む。そこからわずかな風が舞い上がるようにして理が吹いていく。私たちは「神のからだ」に懐住まいをしているため、この世のあらゆるものとつながっている。吹いた理は遠く離れた病人の枕元へ瞬時にして到達し、その人の身体を優しく包んでくれる。願い人の心が誠真実であれば、神様がその心に乗って働いてくださり、病人はきっと、たすかる――。
50歳のとき、「脳梗塞」になった。教会で、信者さん宅で、また大教会や教務支庁でも、たくさんの方がお願いづとめを勤めてくださった。いま思い出しても、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。おかげで、わずか2週間で退院。一時は左腕にしびれが残り、真っすぐ歩くことさえ困難だったが、いまでは後遺症も全くない。
「理を振る」という言葉を自分なりに悟ってからは、おつとめの時間をより大切にするようになった。教会にいるときは、できるだけ十二下りのお願いづとめを勤めさせてもらっている。このひと振りひと振りで人がたすかると思えば、これほど陽気な踊りはない。ただし、真剣さは決して忘れない。教祖が仰せられたように、ご守護いただくための誠真実をお供えしなければ、何にもならない。
「みかぐらうた」を嚙みしめながら、実際に教えを守って通ることを自分に言い聞かせる。神様が、それを真実と受け取ってくださったならば、きっと理を吹かせてくださるだろう。新型ウイルスが流行し、おたすけの現場でもテレワークが求められる時代。直接おさづけを取り次ぐことができず、もどかしさを感じることもあるが、私たちにはおつとめがあることを心丈夫に思う。
(要旨)