教史再彩“道のさきがけ”を今に – 天理教校――信条教育の源流
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界からみえてくるものは――。
現在、親里管内では幼稚園から大学院まで一連の学校・施設が整備され、それぞれに応じた信条教育が施されている。その源流は、明治33(1900)年に設立された天理教校にある――。
天理教校(以下、教校)は明治33年4月1日、本教初めての学校として開校した。
教校の開校は、本教が一派独立に向けて大きく歩みだし、新しい時代を迎えるに当たって、学校設置の必要性を痛感された中山眞之亮・初代真柱様の英断によるものだった。
当時、教内の雰囲気は、学校設置に向けて必ずしも積極的ではなかった。「道に学問はいらぬ」「学者金持ち後回し」という深い含みのある言葉を、文字通りに解釈し、大方は学校設立など思いもよらないという情況だった。
こうしたなか、初代真柱様は「おさしづ」を伺いながら、天理教校を開校し、施設の拡充を進められた。
たとえば、「学校設置の願」という「おさしづ」を伺い、お許しを頂いたが、そこでは次のように述べられている。
「元々通りた理聞き分けみよ。何も無い処からどうなりこうなり、あれこれどんな年もあった」(明治31年7月28日)
この教えは、天保9年から、教祖が貧のどん底に落ち切って、何もないところからお通りくださったところより始まっている。学校設置に当たっては、そうした教祖が教え導かれてきた「元々通りた理」をよく聞き分けることが肝心であると、お仕込みくださっている。
また、「教校資本金を募集御許し願」の「おさしづ」では、「大きい事は要らん。大きい大木は末は傷む。枝は傷む。小さい処から、今年は何寸延びた/\楽しむ」(明治33年3月30日)として、最初から大きいことを考えるのではない。根をしっかりとして、今年は少し伸びた、何寸伸びたと、先を楽しみに事に当たってもらいたいと望まれている。
さらに、教校の校舎普請についての「おさしづ」では、「中に錦を着ずして、外に錦を着ては通られん。(中略)夜の暗がりは通れるなれど、昼の暗がりは通れん。これをよう聞き分け」(明治34年10月13日)と、人は外観を着飾ってよくしようとするが、心の内側が錦であることが大切である。真実の教えを胸に治め、どんなときも心明るく通ることの大切さを諭されている。
こうした一連の「おさしづ」を通じて、親神様は心の置きどころを仕込まれるとともに、教校のあり方とその精神を教えられた。
明治33年4月1日の開校式で、初代真柱様は、教校の教育が目指す方向について、「信心堅固にして、而かも学識徳行兼備せる教師を養成し、益々斯道の光輝を発揚し」(『天理教校百年史』)と明示された。学識だけでなく、徳を修め、なおそれに信心堅固であることを求められたのである。以来、今日に至るまで、教校では、このお言葉を根幹に教育が行われている。
これら教校設置に関する「おさしづ」や初代真柱様の訓辞は、ひとり教校のみならず、親里管内すべての教育施設が心すべきお言葉であろう。