講演ダイジェスト 天理大学おやさと研究所公開教学講座「信仰に生きる『逸話篇』に学ぶ(7)」から
生まれ替わりを経て陽気ぐらし世界へ近づく
永尾教昭 おやさと研究所長
天理大学おやさと研究所(永尾教昭所長)は現在「2021年度公開教学講座――信仰に生きる『逸話篇』に学ぶ(7)」をオンラインで開催している。9月1日に配信が始まった第1回は、永尾所長が『稿本天理教教祖伝逸話篇』110「魂は生き通し」をテーマに講演。ここでは、その内容をダイジェストで紹介する。
人間は「心」「体」「魂」の三つの要素で構成されていると思う。「おさしづ」に「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの」(明治22年2月14日)という一節がある。体は神様からの借り物で、心は自分のものということだ。ここでは、心が所有物であり、「我」が所有者になる。では「我」とは、いったい何なのか。これが人間の根源的なもの、いわば「魂」なのではないかと思う。
原典の中で、教理として魂を説かれているのは「高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい」(おふでさき十三号45)というお歌の一例のみである。解釈はさまざまだが、教祖は、このお歌を通じて、個人の能力や環境、あるいは生い立ちによって社会的立場に違いはあれど、人間の本質的なものに貴賤の差がないことを、はっきりお教えになっていると思う。
魂と関わりの深い「生まれ替わり」については、原典にも用例が多数見られる。特定の人物の生まれ替わりについて、「おふでさき」「おさしづ」で具体的に説かれる一方で、「後々誰の生まれ更わり言えば世界大変。(中略)誰がどう、彼がどう、とは言わん」(おさしづ明治31年4月29日)と、生まれ替わりは人間が本来知るべきことではないと示唆されている。
魂は生き通しでありたすけのうえに働く
さて、逸話篇110「魂は生き通し」では、教祖が、すでにお出直しになった秀司様やこかん様とお話をされている場面が描かれている。この逸話を、どう悟ればいいのか。『稿本天理教教祖伝』によれば、秀司様がお出直しになった直後に、教祖は、秀司様に代わって「私は、何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられた。そのうえで「元初まりの道具衆の魂は、いついつ迄も元のやしきに留まり、生れ更り出更りして、一列たすけの上に働いて居られる」と記されている。
教祖は、元初まりの道具である魂は、これからも元の屋敷に留まり、いまも世界たすけに働いてくださっていることを、お教えになったのではないか。
お道では魂は生き通しであり、また新たな体を借りて、この世に帰ってくると、はっきりお教えいただく。人間は生まれ替わり出替わりを繰り返して、一歩一歩、陽気ぐらし世界へ近づいていくのだろう。このことは私たちの信仰生活のうえで、決して欠かしてはならない教えのポイントだと思う。
2021年度公開教学講座ラインナップ
第1回
永尾教昭所長
110「魂は生き通し」
第2回
金子昭研究員
127「東京々々、長崎」
第3回
尾上貴行研究員
130「小さな埃は」
第4回
澤井治郎研究員
138「物は大切に」
第5回
島田勝巳研究員
123「人がめどか」
第6回
澤井義次研究員
115「おたすけを一条に」
※2021年度公開教学講座「第1回永尾教昭所長110『魂は生き通し』」の動画は、おやさと研究所のホームページから見ることができる。第2回以降の開催方法の詳細も同ホームページへ。