教史再彩“道のさきがけ”を今に – 「おさづけの理」戴く“下拵えの場”
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界からみえてくるものは――。
66年前の昭和30年10月26日、おやさとやかたが新しい別席場として使い初めされ、大勢の別席者がどっと押し寄せた。「この日を目指して全教信徒は一人でも多くの別席者をと、懸命に“にをいがけ”活動を行って来たため、さしもの“おやさとやかた”も別席者で満ちあふれ係員も大童で整理に当たった」
(『天理時報』昭和30年10月30日号から)
教祖のお側近くでお仕えした先人の一人は、「おさづけの理」の尊さについて次のように語っている。
「医者の手放れとなった難病は、誰がたすけるか。医者が手をはなしたら、それでしまいや。人間ちからでたすけようがないのや。そこを、おさづけ持ちが、神様のお力を借りて、たすけさしてもらうのである」と。
「おさづけの理」は明治7(1874)年、長く誠真実の心で通られた先人たちに初めて渡された。以降、教祖は折にふれて「長々の間、御苦労であった」「よう苦労して来た」と、道に尽くした労をねぎらわれたうえで、お渡しになった。
教祖が現身をかくされてのちは、それぞれの心の成人や働きを見定め、身上に障りをつけて引き寄せ、おさしづを通して渡された。
その後、「おさづけの理」を渡される際のおさしづの内容は、たすけ一条の心をつくるための“お仕込み”の様相を呈するように。それは、人をたすけようとする誠の心の理が、病み苦しむ人をたすける元となるからである。
さらに、だんだんと願い出る人が増えると、21年には別席が始まった。静かな場所を別に設け、取次人の仕込みを通じて、元初まりの話やひながたなどを学んでもらい、「おさづけの理」を戴くにふさわしい心を養うことになったのである。
翌22年、別席を運ぶ回数は、3回から9回へと変更された。回数を重ねることで、少しでも深くをやの思いを心に治め、たすけ一条の心を育むことが望まれたのである。
そして、一般信者への別席は、戦時下において中止を余儀なくされる時期があったが、昭和21(1946)年1月には、前年10月の「かぐらづとめ」の復元に続いて再開された。
30年、中山正善・二代真柱様は、新しい別席場の使い初めに当たり、別席とは「おさづけを取り次ぐ理を頂くにつき、それの下話である。(中略)それの下拵えをするところの理である」と、別席の役割について、あらためて述べられている。
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昭和29年4月に始まったおやさとやかたの第1期工事は1年6カ月で終了し、30年10月26日の祭典後には「使い初めの儀」が執り行われた。この秋季大祭の日から、立教の時間に合わせて午前8時から祭典が勤められるようになり、「復元」の気運が一層高まる中での慶事であった。
写真は、別席場が開くのを待つ人々である。当日の別席者は1万2,332人に上った。なかには、若い人に背負われたり、手を引かれたりして列に連なる人たちも少なからずいた。
昭和30年10月26日、おやさとやかたが新しい別席場として使い初めされた様子を、動画でご覧いただけます。