天理時報2024年5月22日号6面
【4カ月で4,578人が出動被災地復興に力を尽くし -「令和6年能登半島地震」】バックホーを使用し、災害ごみをダンプに積んでいく(珠洲市で)災救隊本部隊の活動続く1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」により甚大な被害に見舞われた石川県珠洲、輪島の両市では、現在も災害救援ひのきしん隊(=災救隊、冨松基成本部長)本部隊による懸命の救援活動が続けられている。最初の出動から間もなく4カ月になるなか、13日までに40教区隊4千578人が出動した。また、天理教災害対策委員会は「天理教災害救援ひのきしん隊基金」を常設し、受付窓口を設けた道友社には、各地の教友から多くの真心が寄せられている。ここでは、災救隊の活動を振り返り、道友社へ寄付に訪れた教友の声を紹介する。能登地方では現在も珠洲、輪島の両市で約3千110戸で断水が続いている。また、これまでに確認された死傷者は1千557人、全・半壊、一部損壊などの住宅被害は12万790棟に上り、4千人以上が避難生活を余儀なくされている。既報の通り、これまで災救隊本部隊は、珠洲市の和洋菓子店「メルヘン日進堂」、輪島市の鹿島大教会大輪布教所、七尾市の陸牧分教会信者宅、金沢市の教務支庁に宿営地を設け、珠洲、輪島、七尾の3市と志賀町へ出動。避難所の運営サポートや食事の提供、ブロック塀の解体などに従事してきた。こうしたなか、第20次隊(4月1~4日)以降は、輪島市の日本航空高校石川の校舎内に新たな宿営地を設け、珠洲、輪島の両市で復旧支援を中心とする活動に着手。珠洲市災害ボランティアセンター、輪島市社会福祉協議会と連携し、一般ボランティアには対応が難しい現場でブロック塀の解体作業などに力を尽くしている。第29次隊(5月11~13日)では、福井、宮城、愛知の3教区隊に加え、青年会本部委員・同部員・直属分会委員長から成る青年会隊が珠洲、輪島の両市へ。バックホー(パワーショベル)とダンプを使用するなどして民家18軒のブロック塀の解体と搬出、災害ごみの運搬などに従事したほか、被災教会では倒壊した外壁の解体・撤去なども行った。◇なお、第29次隊までに40教区隊延べ4千578人の隊員が出動した。さらに、14日からは第30次隊として、岩手、滋賀、兵庫の3教区隊と青年会隊が出動し、引き続き救援活動を継続している。寄付者の声被災者の心のたすかり願って村上廣國66歳・北七條分教会長・奈良県大和郡山市元日に発生した地震によって被災された人たちのたすかりを願い、このたび「災救隊基金」に寄付させていただいた。被災地では、長期化する避難生活に、つらい思いを抱える人が少なくないと聞く。こうした状況に、教会につながる信者さんが「災救隊基金」への協力を申し出てくださった。現地へ赴いての救援活動ができない分、教会に集まった真実をもって、復旧・支援に尽力する災救隊の皆さんの活動を応援したい。寮で「基金」への寄付を募り田中唯人天理高校第2部4年・天理市地震発生当時、「平成29年7月九州北部豪雨」のことを思い出した。被災した地元の復旧に、災救隊の方々が駆けつけてくださり、心救われる思いがした。「いまこそ、あのときのご恩に報いたい」と思い、陽心寮の幹事や寮長先生と相談のうえ、1カ月間、寮の玄関に募金箱を設置。集まった募金を「災救隊基金」に寄付させてもらった。これからも自分たちにできる支援に努め、被災者のいち早いたすかりの一助になればと思っている。勇気を出して協力呼びかけ笹倉晃生20歳・兵庫中央分教会長後継者・天理市「春の学生おぢばがえり」の当日、被災地復興の支援として、宇仁学生会が天理駅前で実施した「災救隊基金」への募金活動に参加した。始めは緊張したが、被災した人たちのたすかりを願い、仲間と共に勇気を出して行き交う人たちに声をかけ続けると、心を寄せてくださる人が次々と現れた。募金活動後、協力者の真実をすぐに寄付させてもらった。いま自分にできることはわずかしかないが、被災した方々が元気になってもらえるよう、親神様・教祖にお願いしたい。, 【れる、られる – 世相の奥】見ることができる状態を、しばしばわれわれは「見られる」と表現する。来ることができる様子も、「来られる」と言いあらわす場合がある。「られる」は可能性をしめす助動詞である。あるいは、助動詞「らる」の口語形とみなすべきか。そして、このごろは「られる」の「ら」をはぶく人が、ふえている。「見られる」や「来られる」を、「見れる」や「来れる」ですます人が多くなってきた。いわゆる「ら抜き」だが、若い世代にその傾向はいちじるしい。いや、中年にも、ひろくゆきわたっている。りちぎに「見られる」と「ら」をそえるのは、老人ぐらいかもしれない。それでも、日本語としておりめただしいのは、「ら」のあるほうだとされている。それはテレビの字幕、テロップを見ていると、よくわかる。画面に登場する人物が「ら抜き」でしゃべっているのに、字幕は「ら」をおぎなう。テロップでは「ら抜き」とならないようにあしらう画面を、まま見かける。そんな放送とでくわすたびに思う。テレビ局は用語用字の問題に関するかぎり、保守的な側へよりそっているのだな、と。しかし、先日、番組名はふせるが、まったく逆の画面に遭遇した。VTRにあらわれた老人は、「ら」をはぶかぬ言い方で、ていねいにしゃべっている。にもかかわらず、字幕のほうが「ら抜き」で彼の口説を、文字化していたのである。おそらく、テロップの製作者は若かったのだろう。老人が口にした「ら」のある言いまわしは、わかりづらい。だから、誰でものみこめるよう「ら抜き」にしてしまったのだと思う。担当者なりに、視聴者の平均値をおしはかって。見ながら、いよいよ「られる」は絶滅にむかうのかと、痛感した。まあ、「見られる」という表現は、敬語としてもうけとめうる。ごらんになるという意味合いで、解釈をされかねない。それをさけるために、可能の「見られる」を「見れる」にしてしまう手はあろう。私が目撃したテロップに、その意思があったとは言うまい。また、担当者は、あとで番組のプロデューサーから、しかられているような気もする。もちろん、局内にいるほかのスタッフは、字幕の処理に頓着しなかった可能性もある。いずれにせよ、老人の私は、ほろんでしまいそうな「ら」とともにありたい。