天理時報2024年1月17日号3面
【別席取次人(立教186年12月16日・29日・立教187年1月9日)】清水ゆきみ立教186年12月16日お許しを頂かれました。小原万衞立教186年12月29日お許しを頂かれました。中山正直立教187年1月9日お許しを頂かれました。内統領室, 【友人も趣味もなく孤独で… – 人生相談】Q. 実家を離れて働き始めて20年。社交的ではないので休日に遊ぶ友人もおらず、熱中できる趣味もなく、孤独に過ごしています。同年代が家族と幸せそうにしている姿を見ると、つい寂しくなります。これから先の楽しみを何か見つけたいのですが……。(40代男性)A. 異郷の地で孤独を感じているのですね。何か諦めのような気分も伝わってきますが、20年過ごしたことをプラスに考え、これから新たな人間関係を築いていってほしいと思います。せっかくこの道を信仰しているのですから、遠慮なく近くの教会を訪ねてみるのもいいと思います。また「教区・支部情報ねっと」を活用し、仕事が休みの日などに、在住地域の支部活動に参加することもできるでしょう。いずれも温かく迎えてくれることと思います。これまでと違う関わりの中に、友人も趣味も見つかるのではないでしょうか。いまは教祖140年祭へ向かう年祭活動のさなかですから、支部でもいろいろな活動があると思います。ひのきしんや研修会などに参加することで、寄り合う信者さんたちと顔見知りになり、次第にあなたの居場所もできると思います。そこで気の合う人との出会いや、ひょっとしたら思わぬご縁さえあるかもしれません。「諭達第四号」に「人救けたら我が身救かる」とあります。受け身でいるのではなく、何か自分にできることはないかと、たすけ心をもって何ごとにも前向きに取り組むことで、それが楽しみともなり、「いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」ことになるのではないでしょうか。回答者:西村和久(一筋分教会長・「憩の家」事情部教師), 【6代会長就任奉告祭 – 本部直属コンゴブラザビル教会】本部直属コンゴブラザビル教会(マテラマ・ギィ・ラウール会長・コンゴ共和国ブラザビル市)は2023年11月11日、6代会長就任奉告祭を執り行った。当日は、松田理治海外部長をはじめ、他宗教の代表者や行政関係者を来賓に迎え、現地教友が陽気におつとめを勤めた。祭典後、あいさつに立った松田部長は、新会長に対して「まず自らが成人の道を歩んでいただきたい」と求めるとともに、教会のようぼく・信者に向けては「新しい会長にしっかりと心を寄せて、共に成人の道を歩んでもらいたい」と話した。続いて、ギィ会長があいさつ。コンゴの道の伸展と教会の発展に尽くした道の先輩たちに感謝と敬意を表したうえで、「奉告祭を機に、教祖140年祭に向けた成人の歩みを、皆さんと一手一つに進め、親神様・教祖にお喜びいただきたい」と誓った。(本部海外部発)お道のニュースでも紹介しています。https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/omichinews/53435/, 【立教186年12月月次祭 – 来る年も足並み揃え】穏やかな冬の日差しのもと、参拝者は一心に「みかぐらうた」を唱和した(2023年12月26日、本部中庭で)立教186年”納めの月”の月次祭は2023年12月26日、中山大亮様祭主のもと執り行われた。大亮様は祭文の中で、今年は新型コロナウイルス感染症による制限が解除され、教内のさまざまな活動や諸行事を再開する一方で、年祭に向かっては、ようぼく一人ひとりがひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを推し進めてきたとして、「私どもをはじめ教会長、ようぼく一同は、明けて、年祭活動2年目を迎えるに当たり、あらためて教祖年祭の元一日の理を深く心に刻み、教祖の道具衆としてさらなる教えの実行と丹精を積み重ね、来る年も、足並みを揃えた実動を活発に推し進めさせていただく決心でございます」と奏上された。この後、かぐら・てをどりが陽気に勤められた。穏やかな冬の日差しが降り注いだこの日の親里。年の瀬の神苑では、参拝者たちが一心に「みかぐらうた」を唱和し、過ぎし1年のお礼を申し上げた。おつとめの後、上田嘉太郎本部員が神殿講話に立った。上田本部員は、「ひながたの道を通る」をテーマに話を進める中で、貧に落ちきられたご事歴に言及。形のうえの貧よりも、その奥にある教祖のお心が肝心だとして、「まずはお教えくださったことを実践するとともに、道すがらの奥にある教祖のお心を尋ねる、お心に近づくことが根本だと思う」と話した。, 【明治7年から150年の節目に – 視点】今年は、明治7(1874)年から数えて150年目に当たる。この年は、教祖の道すがらを考えるうえで非常に大切である。『稿本天理教教祖伝』を繙くと、まず「つとめ」のうえで、同年陰暦5月5日、教祖は前川家へかぐら面の受け取りに赴かれた。以来、おやしきでは賑やかに本づとめが勤められ、毎日毎夜つとめの後、お手振りの稽古が行われた。そして「布教伝道」のうえでも、みへるのもなにの事やらしれまいな 高い山からをふくハんのみちこのみちをつけよふとてにしこしらへ そばなるものハなにもしらすに(おふでさき五号57・58)と宣言され、自ら高山布教に取り掛かられた。具体的には、同年秋の「大和神社のふし」「山村御殿のふし」が、それに当たる。これらの事件を契機に、本教に対する公権力による迫害干渉が始まったが、このことは、見方を変えれば、教祖が「あかいところ」へ出られて積極的に教えを説かれるようになった最初ということもできる。「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや」との教祖のお言葉に、お心が集約されている。山村御殿のふしの後、教祖は初めて赤衣を召され、「おふでさき」の中でこれまで用いられた「神」の文字を「月日」と置き換えて、一段と親神様の理を明かされた。さらに、数人の熱心な信者に初めて身上たすけのおさづけを渡された。数々のふしを通して、人々の信仰は高められ、教祖のなさることに間違いはないとの信念が固まっていった。たすけを取り次ぐ段階へと、当時の人々の信仰が大きく展開していったのである。かつて中山善衞・三代真柱様は、明治7年は「たすけ一条の道が表へ現れ始めてよりだんだん発展して、教祖から仕込みを受けられた人々が次第に成人をして、教祖の手足となってたすけ一条の道を歩み始めたという姿が現れた年である」と、その意義を強調されたことがある。年祭活動2年目の本年も、各地で「ようぼく一斉活動日」が開催される。お互い「たすけ一条」を胸に、明るい心で日々をつとめさせていただこう。(山澤)