天理時報2021年9月26日号1面
逸話の季ITSUWANOTOKIある夜の“ひながたの光景〟本部神苑の上空に、中秋の名月が光り輝いている。「お月様が、こんなに明るくお照らし下されている」。親子で糸紡ぎをされながら、明るく勇んで通られた“ひながたの光景”が、瞼に浮かぶ。(この写真をプレゼントします。詳細は4面広告欄で)自分を見つめ直す9月になりました。特に朝晩は、季節の変わり目を肌身に感じます。秋分を境にして、昼夜の長さが少しずつ変わっていきます。秋分を過ぎると立冬、冬至、大寒と、季節は冬に向かいます。もちろん、その先にまた春が来るのですが、しばらくは穏やかな空気と落ち着いた景色を楽しみましょう。それに秋には、味覚を楽しませてくれる自然の恵みが豊富にあります。教祖は、あるとき増井りんに、9月9日の「栗の節句」について話されました。「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮な渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』「七七栗の節句」)中国の陰陽思想の影響を受けて、奇数の重なる月日を節句とする文化は古くから日本に定着していました。江戸時代には広く民間にも普及して、節句料理を食べるようになります。重陽の節句に食べる栗ご飯を作るには、イガをはずして堅い鬼皮をはがし、さらに渋皮をむき取る作業が欠かせません。一つ二つは楽しく皮をむけますが、そのうち手が痛くなってきます。鬼皮が挟まり、指の爪がはがれたと思うこともしばしばです。*信仰的な成人の過程を栗の下ごしらえに譬えられた教祖のお言葉は、シンプルな表現でありながら含蓄に富んでいます。明治以降、五節句は公式な行事ではなくなりました。自分で栗を拾って、この日に栗ご飯を炊く人も少なくなったでしょう。しかし教祖の時代には、栗の下ごしらえは極めて一般的な生活体験の一つでした。こうした生活感に溢れる教祖のお言葉は、人々の心により響いたのではないでしょうか。わが家の栗の木は、そろそろ収穫の時期です。今年は栗の皮をむきながら、しっかり自分を見つめ直したいと思います。■文=岡田正彦