天理時報2021年7月4日号4面
特別企画信心への扉おやさまに導かれた女性文・伊橋幸江天理教校本科研究課程講師人を喜ばせ満足さすという心山澤ひさ教祖のお側にあって、その深い慈しみを受けたひさ。飾り気のない人柄で、親戚のお産と聞けば、いつも世話に出かけた。また、「切り口上、捨て言葉」を固く戒め、たとえ冗談であっても、やかましく止めたといわれる生涯をかけて、教祖一筋に通られた先人は、教祖の「ひながた」を身にあらわして、いきいきと伝えています。「よう働かれたお方」今回は、山澤ひさ(文久3・1863年~昭和7・1932年)という先人を取りあげます。「私の信仰は、親の胎内に宿っている時から」と語る先人は、梶本家に嫁がれた、教祖の三女おはる様の次女として生まれました。ひさは、小さいころから母親に連れられて、しょっちゅう、おやしきへ帰っていたようです。おやしきは母親の実家でもあり、教祖は、お祖母様にあたられます。教祖は、子どもがたいへんお好きで、どの子も隔てなく可愛がられたといわれています。明治13、14年、17の歳のころから、おやしきに詰めきって、秀司先生の看護やそのほかの御用をつとめるようになりました。同じころに、おやしきで教祖のお守り役をつとめた増井りんは、後年、嫁の山澤かよに、「あんたのお母さん(ひさ)は、それはそれは、よう働かれたお方だっせ」とおっしゃったといいます。この「よう働かれたお方」という言葉によって、ひさの信心とその人柄を、よくわからせていただくことができます。増井りんの覚書に、冬も寒のころに、おやしきの泉水を掃除されたという出来事がしるされています。そのとき、止めるのにもかかわらず、ひさは冷たい水の中に飛び込み、いっしょに泉水をきれいにして、秀司先生におよろこびいただいたとあるのです。明治14年に秀司先生が出直された後も、かわらず教祖のお側でつとめました。明治18年2月18日から2日間の「最後の御苦労」のさい、警察署で、「ひさは、昼はお側に、夜は枕許に坐って両手を拡げお顔の上を覆ったまま、昼夜通して仕えつづけたが、少しも疲れを覚えなかった」とは、『稿本天理教教祖伝』の「第九章御苦労」にしるされるとおりです。生涯、質素な身なりで小さいころから、親しく教祖に導かれたひさは、教祖の「ひながたの一端」として、「働き」ということについて語っています。教祖は、「朝起き・正直・働き」という、にちにちのつとめかたを示され、そして「働き」については、「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらくと言うのや」(逸話篇1)とお聞かせくださっています。わたしたちは、通常、自分やその家族のために働くと考えていますが、その常識をひっくりかえして、真実に生きるポイントを教えてくださっているのです。教祖の「働き」ということについて、ひさが語っているところを、あげてみましょう。教祖は、お年を召されてからもたいへん手先がご器用で、暇をみては機織りをなさいました。「猫に小判」の模様入りの織物をおこしらえになったときなどは、ほとほと、その器用な手仕事に感じ入りました。あるときは、暇ひまに、端布を縫い合わせては、鶏や蝉、虎などをお作りになりました。そのときは、じっさいに生きている鶏や蝉、絵の中の虎をごらんになるのでした。このように、教祖は、暇があると、かならず手を働かせて、ちょっとの間もゆっくりされることなくお過ごしになりました。この「ひながた」について、教祖は、けっしてご自分のためではなく、これらを人にさしあげて、喜ばすためであらせられたと思案いたします。教祖の「働き」のうちには、つねに人を喜ばせ満足さすという慈愛のお心がこもっていました。