天理時報2021年7月4日号5面
また夜に、教祖から裁縫を教えていただきました。あるときは、3センチほどの小さい布を縫い合わせて袋を作り、そこへ、カンナ屑でこしらえた紐をとおしてくださいました。*教祖は、そのような袋の中にお菓子を入れて、どの子にも分け隔てなくおあげになったのです。こうして、つねに教祖に間近に接したひさは、自分のためではなく、人に喜んでもらうために時間をつかうという教祖の「ひながた」を、みずからも身におこなって通りました。その精神は、生涯、質素な身なりで通りきられたという態度においても、うかがうことができるとおもうのです。どの子も「ええ子やなあ」ひさは、明治20年に山澤為造と結婚します。為造の父・良治郎は、秀司先生が出直されたのち、中山家の後見人として、迫害干渉のきびしい時代に、その矢面に立って事に当たられたのです。為造は、その父のあとを継ぎ、若いころから、この道一筋に通る心を定めました。そして、初代真柱様が出直され、二代真柱様が成人に達せられるまで、その職務摂行者として重責をになわれるのです。ひさは、初代真柱様の実姉にあたります。結婚後も表に立ち裏にまわって、おやしきのうえに働かれました。7人の子どもさんがありますが、みな、それぞれ成人され、道のうえに大きな働きをなされています。子育ての最中、為造の身上をきっかけに「おさしづ」を伺われたさい、神様は、「子の夜泣き昼も泣く、いかなるもたんのう」(明治24・4・20)と、子の夜泣きで困っている夫妻にたいして、「たんのう」の心を治め、「よう帰って来た-」といって、我が子も道の子も迎えてくれるよう。そして、いまの難儀を嘆くのでな「先々の処楽しみの理」と、将来の楽しみをみつめて、たすけあって通ってほしいと諭されています。ひさは、つぎつぎと子どもを与えられましたが、つねに大らかな気持ちで、どの子もきつく叱ることなく、「ええ子やなあ」と言いながら育てられたといいます。晩年は、教祖殿の奉仕を御用として、みなの留守を引き受け、盆も正月も休みなくかよわれました。苦労話は、自分からは話さず、人からたずねられても、いとも軽く答えられたということです。一生を教祖にささげ、教祖の示された「働き」という「ひながた」を、地道に身におこなって通られた生涯でした。白壁の建物が残る上街道の街並みは、往時の面影を留めている。ひさも幾度となく、この道を通って教祖の元へ通った櫟本町の上街道沿いにあった生家の梶本家▲屋敷跡(現・天理教元鍛冶講)に残る古井戸の水は、最後の御苦労の差し入れにも使われたと伝わる明治19年の最後の御苦労の際、ひさは教祖と共に櫟本分署に留め置かれた。写真の鉄瓶は、生家の梶本家からの差し入れに用いられたもの。ひさ直筆の添え書きには「まいにちあさひるばん増野清水両人様と梅谷米田両人様が一組二人にて交代に差入れ下されしなり」とある