最後の御苦労――真心を尽くしてお仕えし – おやのぬくみ
明治19年2月18日(陰暦正月15日)、心勇組の信者が大勢お屋敷へ参詣に来て、十二下りを勤めたいと願い出た。目下、警察の厳しい取り締まりがあるからと、お屋敷では申し出を断ったが、上村吉三郎講元ら一部の者が、勇みきった勢いの赴くまま、門前にあった村田長平宅の2階で、てをどりを始めた。これを探知した櫟本分署から、数名の巡査がただちにやって来て、居合わせた人々を解散させた。
さらに、その足でお屋敷へ踏み込み、門を閉めさせたうえで、お居間の戸棚や箪笥の中を取り調べた。すると、お守りにする布片に字を書いたものが出てきたことから、これを証拠として、教祖と眞之亮様ほか二人を櫟本分署へ引致。このとき、教祖の外孫・梶本ひさが、御年89歳の教祖の付き添いとして同行した。
取り調べはその日の夜更け、午前2時ごろから順に行われ、教祖と眞之亮様、ひさは分署の取調所の板の間で夜を明かされた。その後、眞之亮様は一晩で保釈されたが、教祖には12日間の拘留が申し渡された。これが、教祖の最後の御苦労となった。
教祖は分署におられる間、赤衣を着せるから人が集まるのだという警察の言い立てにより、赤衣の上に、差し入れの黒紋付の綿入れを召しておられた。夜、お休みになるときはそれを被り、ご自分の履き物にひさの帯を巻きつけたものを枕とされた。そして、朝お目覚めになって手水を済まされてからは、一日中、姿勢を崩さず座っておられたという。
食事は、分署から支給されるものは何一つ召し上がらず、北へ300メートルほどの所にあった梶本家から、鉄瓶に入れて運んだ白湯のみを差し上げた。
当時、梶本家には清水与之助、増野正兵衞、梅谷四郎兵衞らが始終詰めており、ひさに毎日、弁当と湯呑み、白湯入りの鉄瓶を差し入れた。ひさの話では、いつも弁当の中に鉛筆と紙切れが入れてあり、その日その日の教祖のご様子を記したものを、空の弁当箱の中に入れて返していたという。
この冬は30年来の寒さで、雪が多く降ったと伝えられる。分署の硝子戸の隙間から身を切るような風が吹き込むなか、教祖は何を見ても聞いても少しも気になさらず、平生とお変わりなくお通りになった。
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教祖は、度重なる拘引や留置に際して、いつもいそいそと出かけられた。そして、眼前の出来事の根底にある親神様の思召を説き諭し、心を倒しがちな人々の心を励まして通られた。最後の御苦労にまつわる希少な品は、どんな中も教祖に真心を尽くしてお仕えし、節から芽を出す思案を重ねた先人の心の軌跡を物語っている。