この道は、おやさまおひとりからできた道や 中山たまえ – 信心への扉
文・伊橋幸江 天理教校本科研究課程講師
あたらしい年のはじめ。この年を切りひらいていくにあたり、中山たまへ様を取りあげます。
つよい、神一条の信念
おやさまに導かれた女性というとき、第一番にあげられる、この先人の言葉や態度は、困難を通りぬけ越えてゆくエネルギーにあふれています。
令和2年、天理教婦人会創立110年を記念して『初代会長様のお心を温ねて』が出版されました。その「序」には、つねに「神一条」に、「強い信念」をもってお通りくださった中山たまへ初代会長様の精神は、どのように時代が移りかわっても受け継がせていただくもの、としるされています。
その精神を『初代会長様のお心を温ねて』に求めてみましょう。
たったひとりで
中山たまへ様(明治10・1877年〜昭和13・1938年)(筆者注・『初代会長様のお心を温ねて』の「略年譜」は陽暦によっている。ご誕生の明治10年2月5日は、陰暦明治9年12月23日にあたる)は、おやさまの嫡孫として、中山秀司・まつゑ夫妻のあいだに生まれました。生前から、
なわたまへはやくみたいとをもうなら
(おふでさき第七号72)
月日をしへるてゑをしいかり
と「おふでさき」にしるされ、おやしきに誕生します。
祖母である、おやさまからは「たまさん」と呼ばれ、おやさまを「おばあ様」とお呼びして成長しました。
おやさまと過ごされた明治20(1887)年2月18日(陰暦正月26日)までの10年間は、官憲によるきびしい迫害干渉の時代です。
明治19年、おやさまは89歳で警察署へ御苦労くださいました。人間の心からしますと、けっして「愉快なもの」ではありませんし、「避けたいのは人情」であると、二代真柱様は『ひとことはなしその二』にしるされています。
しかし、おやさまは、
「此処、とめに来るのは、埋りた宝を掘りに来るのや」
「ふしから芽が吹く」
とおっしゃって、いそいそと警察署へ赴かれました。
警察署では、夜が明けても机の上に灯っているランプの火を、フッと吹き消されました。「婆さん、何する」という巡査にむかって、にこにこされて、
「お日様がお上りになって居ますに、灯がついてあります。勿体ないから消しました」
とおっしゃいました。
おやさまは、ものをむだに消費することが親神様の思召、天理に沿わないことを身をもって示し、自他の区別、陰日向の別なく、警察であろうが、お家であろうが、いっさい変わりなく日課をはたされました。そのひながたを踏ませていただくことが大切であると、二代真柱様はしるされています。
この明治19年の出来事について、「両親の無いわし(筆者注・たまへ様)は、頼りのおばあ様が引かれて行きなさるお姿を、たったひとりで、柱の陰からじっと見送っていた」と述懐されています。
父とは、明治14年、数え年で5歳のときに別れ、その翌年には母とも別れ、11歳のときには、頼りの「おばあ様」とも、お別れになります。
けれども、御苦労のたびごとに、おやさまを慕う人は増え、そのお言葉のとおり、道は世界にひろがるのです。
すたるものを活かして
明治23年、数え年で14歳のとき、中山眞之すけ亮・初代真柱様と結婚されます。
その後も、道は政府からの弾圧をうけ、たいへんな苦心のすえに、明治41年、神道本局から一派として独立します。その道中は、こまやかに心を配り、初代真柱様をささえられました。
明治43年には念願であった天理教婦人会が創立され、その初代会長をつとめられます。
その4年後の大正3年、38歳のとき、夫である初代真柱様が出直されます。長男(正善・二代真柱様)は10歳でした。
二代真柱様の「御母堂様」、そして「道の母」と敬慕されつつ、道の子どもを力づよく導かれましたが、その信念をうかがうことができるエピソードを、つぎにあげてみましょう。
真柱宅に勤めているかたが、新しいお召物をおすすめすると、
「新しいもので新しく使うてゆくのは、あたりまえやが、すたるものを活かして使うということは一寸むつかしい。このむつかしい人のやりにくいことをしてこそ、神様はお喜びくださる」
「人も悪人を導いて善人にするのが、この道の精神である」
と、にちにちに、そこをよく考えて通るように、とおっしゃいました。
そのにちにちは、「洗いざらした浴衣や、ツギのあたった足袋など」を身につけ、日常の身なりの質素なことは、おどろくばかりでした。
おやさまのことをおもえば、
「これで充分や。おやさまは八十、九十というご老体でありながら、冬の最中ににちにちのお召物さえ満足なものは召されなかった。そのお徳をいただいて、『これを着よ、あれを食べよ』と、何一つの不自由もなく、ほんとにもったいないことや」
とおっしゃいました。
現代とは、時代も暮らしかたも違う、といわれるかもしれません。けれども、好んで質素な身なりをするという精神を、ものを生かして通られた、おやさまのひながたに求めることができます。
そして、じぶんのものとおもって暮らしている土地や家、財産などは、神様からお借りしているもの、すなわち神様の領分にあるといわれ、
「人は、姿かたちに捕われやすいものや、いくら良い着物をきてお化粧したかて、値打ちの上がるものやない」
「うわべ飾るより心磨かしていただいて、おやさまのおひながたを忘れんように」
と、体裁や形よりも心を磨くよう、人にさとし、みずからも身におこなって通られました。
きっと切り抜けられる
さらには、道の女性を育てたいという一貫した思いをお持ちでした。
教会長である夫を亡くした婦人が挨拶にうかがったときのことです。遺された7人の子どものことなど、いろいろと慰めてくださり、「教会の責任はどうするのや」とたずねられました。
子どもがたくさんですし、「とても私にはつとまりません」と答えたところ、姿勢を正されて、
「そんな弱いことでどうするのや、この道のご教祖様はご婦人であらせられたのやで、そんなこと言うていて道の女と言えるか、ご教祖様のひながたいつ通らせていただくのや」と、きびしく温かく導かれました。
また、道の者が世界におくれていては、どうもならんといわれ、
「女松男松のへだてはない、と神さまがおおせくだされたからには、女やからといっていつまでも男にぶらさがっているようではならん。良人の光によって光っているようでは良人がいなくなれば光らんやろう、自分で光を出さねばならん」
と、婦人会の役員方へ、たびたび話してくださったということです。
「ご教祖様の御苦労を忘れたらいかん。どんな辛いときでも、それを思うたらきっと切り抜けられる」
と、その心の置きどころを示し、
「おやさまの真の御苦労は、貧乏や不自由にあるのではない」
と、おやさまひながたの要をさとされました。
おやさまは、周囲の無理解のなか、
「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや」
と、相手を責めることなく、わかるまで、くりかえし何度も話をきかせてくださいました。そのおかげで、わからん人もわかるようにしていただいて、この道はつけかけられたのです。
お心を我が心として
こうした『初代会長様のお心を温ねて』にみる、その神一条の信念は、
「この道は、おやさまおひとりからできた道や」
という言葉にあらわれています。おやさまのおっしゃるとおりにすれば、なにも間違いはない、という自信にあふれた言葉です。その信念は、
「何事をさしていただくにつけても、精神のもってゆきどころはご教祖、おやさまや」
「ご教祖様を離れて何にもできないのや」
という言葉にもあふれています。
世界一れつをたすけたいという、おやさまのお心を我が心として、ひとすじに、あたらしい時代を切りひらかれた生涯でした。