第6話 たった一個のパンが – ふたり
前話のあらすじ
第5話 自分はひとりではない
カンは、動植物などの写真を撮影し、自然への思いや過去の出来事を交えた文章とともにブログに投稿している。カンのレストランには、話を聞きにやって来る客もいた。
カンの人生がずっと順調だったわけではない。勉強のほうは時計を使った訓練によってかなり改善された。また小学校のあいだは、ほとんどの科目で暗記カードが通用した。しかし中学から高校へと進むにつれて、記憶力だけでは切り抜けられないことが多くなった。
波乗りをはじめたのは高校に入ったころだった。ハハに基本を教えてもらったあとは、自分で練習して少しずつ上達した。休みの日には海で長い時間を過ごした。楽しむというよりは、海の上に居所を見つけようとしているみたいだった。
そんなとき大波がやってきた。学校の勉強がうまくいかなくなって、さすがにあの子も疲れてしまったのだろう。朝から風が強く吹く日だった。午後には海は大荒れになった。こんな日に波乗りをするのは正気の沙汰ではない。
夜になってから一人で海に出た。あいかわらず海は荒れ狂っていた。案の定、少し沖に出たところで波に呑み込まれた。わたしは岸から一部始終を見ていた。あっという間のことだった。カンの身体は海に引き込まれた。助けに行きたくてもどうしようもない。
いよいよダメかと思ったとき、不意に風がおさまり、雲の切れ間から丸い月が出た。明るい月の光が、荒れた海を宥めるように照らしていた。そこにポツンと一枚の板が浮かび上がった。つづいて波のあいだからカンの頭が現れた。彼はボードをつかんで身体を引き揚げると、水を掻いて岸をめざしはじめた。
あのときカンの命を救ったのはトトだ、とわたしは思っている。きっと暗い海のなかで声が聞こえたのだ。それとも月だろうか。いつかトトは言っていた。海は月を感じている。月が海を持ち上げるように、あの子の身体も上げてくれたのかもしれない。
外国へ行くことを勧めたのはハハだった。無理に大学に進む必要はない。言葉が喋れないなら、最初から言葉が通じない外国へ行ってしまえばいい。
ハハ自身にも同じ体験があった。大学生のときに、とてもつらいことがあった。外国に行けば気分が変わると思った。残念ながら、そう簡単にはいかなかった。どこへ行っても楽しくない。何を見ても心が動かない。あるときドイツの小さな町に泊まった。古い宿の粗末な部屋でベッドは固く、シャワーのお湯はいつまでも温かくならなかった。
「翌朝、食堂で出されたパンにバターをつけて、ひと口齧ったときに何かが変わったの。カチッと音をたててスイッチが入ったみたいだった」
なんの変哲もないパンだったという。その味は一生忘れられないものになった。たった一個のパンが、人に生きる勇気を与える。同じことがカンにも起こってほしい、とハハは願ったのだろう。