ご生家のたたずまい――教祖誕生殿 – おやのぬくみ
教祖がお生まれになった前川家は、おぢばから南へ約3キロ、現在の天理市三昧田町にある。当時の地名は大和国山辺郡三昧田で、東に大和青垣の山並みが連なる閑静な農村だった。
ご誕生は、寛政10(1798)年4月18日の「夜のほの/\゛と明けはなるゝ頃」(『正文遺韻抄』)と伝えられている。この日付は陰暦で、いまの陽暦では6月2日に当たることから、実際の時候は陽春すぎの、青葉したたる初夏であった。当日の早暁には、ご生家の屋根に五色の瑞雲がたなびいたとの言い伝えもある。
前川家は地方に知られた豪農旧家であり、領主の藤堂藩から無足人に列せられ名字帯刀を許された、大庄屋を務める家柄であった。
当家にある「教祖誕生殿」には、ご生家の門屋と母屋が現存する。母屋の屋根は、大和棟または高塀造りといわれるもので、こうした大和の民家特有の建築様式は、裕福の象徴とされた。また、母屋の土間に残っている7基のかまどは、その数によって家の格式が分かったとされる。
教祖は、ご幼少から、その振る舞いが総じてほかの子供と異なっていたという。6歳のころには針を持ち始め、糸つむぎをまね、網巾着や糠袋をこしらえては、好んで近所の子供たちに与えられた。また、子供が駄々をこねて泣いているのを見ては、親からもらったお菓子を惜しげもなく与えられ、その泣きやむのを見て喜ばれたという。
手習いのてほどきは父親から受け、9歳から11歳まで、近村の寺子屋へ通って読み書きなどを習われている。針仕事は、母の膝元で身につけられた。殊に、裁縫や機織りの技に秀でておられ、一度見たものはそのまま型を取って細工物にされた。また、12、13歳のころには、反物を裁って思うままに着物を仕立てられた。
家が代々、浄土宗の熱心な檀家であったことから、両親の唱える浄土和讃を習い覚えて暗唱されたのも、このころである。
生来、聡明かつ器用であられただけでなく、何ごとも熱心に習い覚え、そのうえ素直で親孝行な方であった。
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教祖は文化7(1810)年9月15日、御年13歳で、庄屋敷村の中山家の人となられた。すべての人間の母親であるいざなみのみことの魂の持ち主であったことから、元初まりにおける約束に基づき、いんねんある元の屋敷へお帰りになったのである。立教の旬刻限が到来するのは、その28年後のことであった。