「世直り」の旬に熱気あふれ 教祖40年祭 – 教史再彩
教祖40年祭の祭典は大正15年1月15日、20日、25日の3回にわたって執行。初日の15日、早朝から多くの信者が神殿に詰めかけた。「未明五時となるや、(中略)境内各門の開かれるを待って、神殿目がけて雪崩れ込む信者幾萬とも知れず。朝勤には早くも神殿は無論のこと、さしも広大なる境内を埋めつくした」
(『みちのとも』大正15年2月5日号から)
教祖40年祭は、5年前の大正10年に打ち出され、全教の教信者は「教勢倍加運動」と「おやしき整備拡張」を活動目標に邁進した。
その結果、2万2,378人(大正9年)だった教師数は4万6,576人(昭和元年)に、4,066カ所だった教会数は8,621カ所に倍加した。
また、神殿南側の村道を廃止し、信者宅や詰所を東西へ移転。天理教館、新別席場などを建て、本部から丹波市駅(JR天理駅の前身)までの道路を開通するなど、親里の整備と拡張が行われた。
こうして、15年1月に迎えた40年祭。教祖に神殿東側の仮祭場へお出張りいただき、前年に管長就職奉告祭を終えられた中山正善・二代真柱様祭主のもと、祭典は3回にわたって執行された。
1日目の15日に続き、2日目の20日も、早朝3時の開門から瞬く間に境内地は参拝者で埋まり、立錐の余地もないほどだった。
そして3日目の25日も、霜が降りるほどの寒さにもかかわらず、午前2時から各門の前で参拝者の人山が築かれた。そこかしこで年祭に帰るうえでの苦心談が「結構や、結構や」との喜びとともに語られ、午前4時の開門を迎えるや、信者が雪崩れ込むありさまだった。
1月15日から30日まで日刊新聞『四十年祭時報』が発行され、細大さまざまな事柄が記録された。
▼詰所はどこも超満員。畳1枚に4、5人が割り当てられ、膝を抱いて寝なければならなかったが、誰一人、不足をこぼす者なく、「御教祖様の御苦労を思えば、どんなたんのうもさして貰える」と語り合った。
▼(当時は下水道が普及しておらず)詰所の裏には肥車(糞尿を運搬する車)が何台も並んだ。
▼電気使用量が増加し、各詰所は本部電気部からの配電体制に。停電や漏電が頻繁に起きるので各所を調べると、申請数以上の電球を館内に取りつけたり、ヒューズを勝手に大きくしたりする詰所がいくつかあり、過度の負荷による電線の破損が、その原因だった。
▼露店は1,585軒を数えたが、無駄なお金を使わないうえに、一生懸命におつくしをした後のお道の人たちが相手だったからか、売り上げは芳しくなかった。
▼救護班の医師は、重病人がおぢばを慕って帰り、落ち着いて参拝する姿を見て大きな感動を受けた。
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年祭の帰参者は65万人。「四」の数にかけて「世直り」の旬といわれた40年祭は、教信者の熱気あふれるなか、盛大に勤められた。