「へそ曲がり」も時には役に立つ – こころに吹く風の記
私は「へそ曲がり」を自認していて、常々人にもそうお話ししています。へそ曲がりというより、誰でもそうだと思う当たり前の話や、十人が十人とも反対しない話ほど、「ほんとにそうだろうか?」と疑ってかかる、嫌な性格のように思います。
たとえば以前、「箸の上げ下ろしまでとやかく言われる」というお姑さんを持つ方の相談を受けたことがあります。「それは大変だなあ」と気の毒には思いましたが、半面、こうも思うのです。「それほど箸の上げ下ろしとは大事なものじゃないか」と。
また、同じように「重箱の隅をつつかれるようで嫌なのよ」という話を聞くと、「それほど重箱の隅にある汚れなどは気になるのだ」と、つい思ってしまうのです。
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私も最初は、このへそ曲がりな性格を少々気にしていました。しかし、あるとき「へそ曲がりな性格も時には役に立つのではないか」と気づきました。この性格のおかげで、見えなかったものが見え、自分からどうしても離れない悩みを解消するウラ技に、何度もつながったからです。
たとえば、先ほどの「箸の上げ下ろしまでとやかく言われる」というのを例にとって考えてみましょう。親や配偶者から、あるいは上司や先輩から、こういうしつこい小言を言われるのは嫌ですよね。
「もう嫌だ」「なんであんなふうにしか言えないのだろう」と、どんどん悩みが深くなり、「きっと私が嫌いなんだ」「私を恨んでいるんだ」と思って、その原因を探そうとします。
人の心は分かりませんから、原因探しは結局無駄なのですが、そこに入り込めば入り込むほど視野が狭くなり、周りが見えなくなる。このことのほうがもっとやっかいで、湧いてくるのは不安や恐れ、疑心や怒りばかりになります。
私はこういうとき、まず大きく深呼吸をします。何でもないことのようで、とても大切なルーティンです。そうすると、助っ人として「へそ曲がり」君が登場するのです。そして「箸の上げ下ろしのような細かいことこそ大事だよねえ」と思いを変える。少し視点が変わるだけで、他のことが見えてきます。
「そっか。耳障りで気分が悪いけど、それは言い方の問題であって、もしかしたら私のために言ってくれているのかも」「気づきにくいからこそ、気をつけるべきところでもあるなあ」と、怒りや不安の感情に没入しているときにはなかなか見えなかった視点が見えてきます。
このとき、心の中で行っているのは、少し俯瞰して考えること。没入していた場所から一歩下がって、自分を含めた全体を見ることです。こう思いを変えることで、不安、恐れ、疑心、怒りの無限連鎖から、ほんの少し解き放たれるから不思議です。
もっと分かりやすい言葉でいえば、「なぜ」を「なに」に置き換えてみる、ということだと思います。
「いま抱えている悩みは、なぜ起こるのだろう?」ではなく、「いま抱えている悩みは、私にとって何なのだろう?」と問いかけること。もっと具体的に、「子供が学校に行かないのは、なぜなのだろう?」ではなく、「子供が学校に行かないのは、私にとって何なのだろう?」と思いを及ぼすこと。
のめり込んでいた「原因探し」から心が解き放たれる。ぐーっと没入していた感情がすっと冷め、空間ができる。そういう感覚が大事だと思います。その「心の空き地」に、別の大切なことが入ってくるのです。
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私たち信仰を持つ者にとっては、その心の空き地は「神様の思召」を受け入れるスペースとして重要な役割を占めます。神様はいつも可愛い子供であるアナタをたすけたいと思っておられます。心に少しスペースを作ること。そこに、その神様の思いがすーっと入ってきて、悩みが喜びに転ずるきっかけとなるのです。
天理教の教祖、中山みき様は、この悩み、苦しみを喜びに変える心の動きを「たんのう」という言葉で教えられました。天理教が目指す「陽気ぐらし」とは、そういう心の動きの先に見えてくるのです。
茶木谷吉信(1960年生まれ・天理教正代分教会長・教誨師・玉名市元教育委員)