思わぬ出来事が起こるのはなぜ? – 身近で聞いた素朴な問いにWAKUさんがお答えします
歩道の草引きをしているご婦人が「種をまいたわけでもないのに、こんな所からも生えている。抜いても抜いても生えてくるのはどうしてかしら? 何かしら人生と重なるわ」と話しかけてきました。
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種が飛んできたか、根が残っていたか……。まいたり植えたりした覚えはなくても、そこに芽生えるもとがあったのでしょうね。草にも生命力を感じます。
私たちの日常にも、知らない草が生えてくるように、思わぬ出来事が起こります。嬉しいこともあれば、つらいこともあります。偶然と思ったり、人のせいにしたりすることもありますが、やはり、そのことが起こってくるもとがあったのでしょうか。
『天理教教典』に「人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」とあります。
私たちの心は自由に使うことができますが、自由には責任が伴いますね。親神様は、善くも悪くも、それぞれの心づかいにふさわしいご守護をお現しくださり、それによって人々の心を入れ替えさせ、また勇ませて、陽気ぐらしへと導いてくださるのです。
いくら善い種ばかりをまこうと思っていても、うっかりと善からぬ種をまいてしまっていることがあるかもしれません。好ましくない出来事が起こるのも、そのことに気づいて、陽気ぐらしのできる心になってほしいとの親心からの導きであり、決して苦しめよう、困らせようとの思召ではありません。
これからは、善い種をまきながら、つらいことのなかにも親神様の親心を悟って、それを喜びの種としていきたいものですね。
西村和久(天理教一筋分教会長)