原初に「情」があった – 成人へのビジョン5
感情ではなく理性に基づいて合理的に行動する人を、合理主義者といいます。無駄を排して効率を求める姿は有能に映りますが、一方で冷たい印象を与えることも。感情を持つ人間は、多かれ少なかれ不合理な存在で、すべてを合理的に処理しようとすると、どこかで無理が生じるようです。
お道では、神様が定めたこの世の摂理を「理」と表現します。信仰者は理に即した生き方を心がけ、そのため教理を深く学ぶことが求められます。ところが、時に私たちは、自分の解釈による“教理”を定規のように自身や他者にあてて、その是非を判断することがあります。天理に即して生きようとする姿勢は、教理に照らして物事を見る目を養いますが、その際、自身や他者の心を顧みないのであれば、その眼差しは冷徹なものになるでしょう。
1953年、人類史上、最も重要な科学論文の一つが発表されました。わずか2ページのこの論文は、その後の生命科学を決定づけます。DNAの二重螺旋構造の解明。この二重螺旋により、片方が欠損しても、もう一方のデータで欠損部が復元されるのです。いわゆる“生命の設計図”、DNAの驚くべき神秘です。
僕は思う。原初、親神が世界の混沌たるさまを味気なく思召し、人間の陽気ぐらしをするのを見て共に楽しもうと思いつかれた。それは、私たちが言うところの「情」の働きではないか。元の親が思われた味気ないという心情、陽気ぐらしを見たいという情動、その「情」が、陽気ぐらしという壮大な構想のもと、親神の働きの道筋となってこの宇宙を覆った。それが「理」ではないか。神がこの世界を創めた思いは、まず原初の親心にあり、それは合理性の彼方にある、と。
親の情に基づく世界の基本設計を天の理とするならば、理と情はDNAの二重螺旋のように不可分の対、二つで一つなのかもしれません。世界は理と情で編まれている。そんな夢想を僕は生きています。
可児義孝