つとめ一条のお心に応える年に – 視点
2025・1/29号を見る
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ひながたを目標にした教えの実践を心として歩んできた教祖140年祭活動も残り1年となった。そこで、明治20年の前年である明治19年の史実を振り返り、励みとしたい。
『稿本天理教教祖伝』に記されている明治19年の事件は、2月18日(陰暦正月15日)に参詣の信者がてをどりを行ったことを咎められて、教祖が極寒の櫟本分署に留置された「最後の御苦労」である。
その後、お屋敷でおつとめが勤められたという記述はない。警察の厳しい監視下でおつとめが容易に勤められなかった苦しい状況が窺われる。しかし、それでも教祖は、7月21日、「四方暗くなりて分りなき様になる。其のときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ」と、なおもつとめをお急き込みになられた。
視野を『逸話篇』にも広げてみよう。逸話篇には明治19年のお話として「199 一つやで」がある。
このお話に出てくる本田せいは、兵庫真明組の周旋で、明治19年秋、持病が悪化して一命も危ないという容体になった。苦しいので「起こせ」とか、「寝させ」とか言い続けていたので、講元の端田久吉がおぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのことを申し上げると、教祖は「寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ」と、講社をあげて勇んでおつとめを勤めることを強く促された。実は、このころ兵庫でも講元らが監獄に収監されるなど、警察の圧迫が激しさを増していて信者がいずみがちであったのである。
そこで講元は急いで戻り、講社の信者を招集して、夜昼六座、三日三夜のお願いづとめを繰り返し勤めて、本田せいは、奇跡的なご守護を頂いたのであった。
お屋敷だけでなく地方の講社にもつとめの実行をお急き込みになった教祖。今年は、この教祖のつとめ一条のお心に少しでもお応えできる年でありたいと思う。
(諸井)









