ありのまま – 世相の奥
2025・1/29号を見る
【AI音声対象記事】
スタンダードプランで視聴できます。
年末の大晦日には、NHKの紅白歌合戦をテレビで見た。どうしても視聴したかったわけではない。見るのがならわしになっていたというだけである。惰性の鑑賞と言ってもよい。
それでも、ながめていると、いろいろ気のつくことはある。たとえば、若い人たちの唄に似たような歌詞が散見すると、私は見てとった。自己肯定のメッセージが、多くの歌詞にこめられていたと思う。もちろん、例外も少なくはなかったろうが。
いつわりのない自分をたいせつにしたい。ほんとうの自分をうしなわないようにしよう。世間には、ながされたくない。自分たちをしばりつける束縛なんかうちやぶってやる……。とまあ、そういった調子の文句がつづいたように、聞こえた。
いっぱんに、日本の若者は自己肯定感が低いという。だとすれば、ふだんは抑制している自尊感情が、仮想の音楽世界で発散されるのだろうか。せめて、楽曲鑑賞のさいは、あふれだす自我をたのしもう、と。本気で言っているわけではない。とりあえずの、仮説的な説明である。そもそも、私は自己肯定感についての一般通念じたいを、うたがっている。
さて、私は最近70歳になった。老人である。このごろは、記憶力や判断力のおとろえを、よく感じる。認知症という病名も、頭をよぎらないではない。
ただ、ボケてしまった人は、その人じしんの本性を回復することがあるという。自制心はおとろえるので、素の自分がうかびやすくなるらしい。言いかえれば、ボケた時にはじめて、当人のかざらない姿はわかるということか。
しかし、それが私にはこわい。たとえば、介護施設におけるこんな自分の未来図で、おびえることがある。
理性をなくした私は、色ボケの爺さんになっていた。女性介護士の臀部をさわりつづけ、彼女らからきらわれる。見舞いにきた孫が、そんな私の姿を目撃し、絶叫する。「やめて、お爺ちゃん」。この絶望的な未来の光景に、私はたじろぐ。
かならず、そうなるとも思わない。しかし、可能性はある。そして、それはかざらない私の素顔であるかもしれないのである。だから、ほんとうの自分はかくしとおしたい。自制心をなくした自分は、どうなってしまうのか。知るのがこわい。若い人との間には溝を感じる。
井上章一・国際日本文化研究センター所長