人々を惹きつける花の香 未来へ向かう“希望のビジョン” – 逸話の季
2025・4/16号を見る
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ようやく、春の日差しと暖かさが訪れました。さわやかな朝の空気の中で、かすかに聞こえる鳥のさえずりに耳を澄ましていると、今年もまたこの季節を迎えられた喜びが胸に溢れてきます。これから美しい花の季節です。梅や桜のあとはツツジや牡丹など、大和の山間部は鮮やかな色彩に包まれる日が続きます。今日の散歩は、少し遠出をしてみましょうか。
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あるとき、いつもジッとお坐りになっている教祖に、井筒梅治郎は「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げます。すると、教祖は「ここへ、一寸顔をつけてごらん」と仰せになり、御自分の片袖を差し出されました。梅治郎がその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りです。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と梅治郎は恐れ入りました。
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』「七六 牡丹の花盛り」)
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奈良県内の牡丹の見ごろは、4月の中旬から5月の初めくらいです。たぶん、この逸話は初夏を前にした、いまごろの出来事だったのでしょう。逸話篇に伝えられた教祖と先人のやりとりの中には、とても不思議な出来事がいくつも記されています。その中でも、特に印象的なエピソードの一つではないでしょうか。
教祖の断食や力くらべのエピソードと同じように、逸話を通して私たちは、先人の方々が教祖に抱いていた畏敬の念をより具体的に感じることができます。
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教祖は「月日のやしろ」であり、その言動は人知を超えた親神様のメッセージであると信じるとき、「おふでさき」や「みかぐらうた」「おさしづ」に記されたお言葉は、たとえ越え難い人生の壁に突き当たり、立ち止まったときにも、再び前を向いて生きることを可能にする力の源泉となるのです。一面に咲き誇る牡丹の花のイメージは、どんなときも私たちには絶望ではなく希望をもって、未来へ向かうビジョンが与えられていることを教えてくれるような気がします。
文=岡田正彦