「永代の物種」に込められた親心 – おやのぬくみ
慶応2(1866)年、教祖は山中忠七に「永代の物種」をお授けになった。『稿本天理教教祖伝逸話篇』(15「この物種は」)には、そのときの様子が詳しく記されている。
教祖は、すでにお寝みになっていたが、「神床の下に納めてある壺を、取り出せ」と仰せになり、壺を取り出させた後、山中忠七をお呼びになった。そして、「これまで、おまえに、いろいろ許しを渡した。なれど、口で言うただけでは分かろうまい。神の道について来るのに、物に不自由になると思い、心配するであろう。何んにも心配する事は要らん。不自由したいと思うても不自由しない、確かな確かな証拠を渡そう」と仰せになり、その壺を下された。
さらに、「この物種は、一粒万倍になりてふえて来る程に。これは、大豆越村の忠七の屋敷に伏せ込むのやで」とのお言葉があった。
その2年前の文久4(1864)年正月、忠七は妻そのの身上のたすかりを願って、初めてお屋敷を訪れた。教祖は「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に」とお言葉を下された。そのは日に日にご守護を頂き、忠七は報恩感謝の思いから、米一升を携えて日参を続けた。
ある日、家族が五斗俵でお供えしてはどうかと提案したところ、教祖は「毎日毎日こうして運んでくれるのが結構やで」と仰せになった。忠七は、この日々の運びを無上の喜びとしていたという。
その姿を見て、村人は嘲り笑った。何しろ近在に聞こえた田地持ちで、働き者として信望を集めていた。煩悶する日もあったが、ひたすら教祖をお慕いし、つとめ場所の普請をはじめ、お屋敷の御用に力を尽くした。そんななか忠七は、教祖から「扇、御幣、肥まるきりのさづけ」を戴いたのである。
永代の物種は、「お道を通って不自由するということは、決してない、という証拠」とされる。それは、日々変わることなくお屋敷へ尽くし運んだ忠七の真実の賜物ともいえよう。
この物種について、山中家では「必要なときに必要なだけ与わる”家の宝”」とも伝えられている。
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私たちが日々、人のため道のために心を尽くす誠真実も、教祖は、”ものだね”として、確かに受け取っていてくださり、それぞれに相応しいご守護を下さるに相違ない。