桜に託した明日への希望 – 日本史コンシェルジュ
日本屈指の桜の名所・弘前城。満開の時期には、こぼれんばかりの花びらが幾重にも折り重なり、花が散り始めると、まるで桜の絨毯のように「花筏」が濠を埋め尽くす。その美しさは、一度目にしたら忘れられないほどに壮麗で印象的です。
それにしても、「花筏」って素敵な言葉ですよね。咲き誇る花を愛でるだけでなく、風にはらはらと舞う花びらを「桜吹雪」、その散った花びらが水面に浮かび流れる様子を筏に見立てて「花筏」、さらに花が散ってしまった桜の木を「葉桜」と呼び、新緑の香りと美しさを愛でる――。
散りゆく花をいつまでも惜しむのではなく、季節の移ろいを受け入れ、一瞬一瞬に楽しみを見いだす、それが日本人なんですよね。弘前城の桜を見ていると、眠っていた日本人の感性がよみがえってきます。
しかし弘前城が、ここに至る道のりは平坦ではありませんでした。明治初頭の版籍奉還と廃藩置県によって城主が去ると、城は行政機関としての機能を失い、手入れもされず荒廃していきました。
その姿に心を痛め、私財を投じて桜を植えた人物がいます。旧弘前藩士の内山覚弥と青森りんごの開祖でもある菊池楯衛です。
明治13(1880)年に内山がソメイヨシノ20本を植えると、その2年後、菊池が1千本を寄贈。しかし、彼らの思いは踏みにじられ、せっかくの桜が折られたり、抜かれたりして無残な姿に……。時代はいまだ士族の気風が強く、「城に桜を植えて花見酒など、もってのほか」と考える人も多かったのです。
それでも内山は諦めず、弘前公園が開園した28年に日清戦勝記念としてソメイヨシノ100本を寄贈。さらに市会議員の在任中、桜の植栽による公園美化を訴え続け、36年に大正天皇のご成婚記念として1千本を植樹しました。
きっと彼らは、後世を担う者が美しい城郭と桜を仰ぎ見ながら、輝かしい明日に希望を抱いて歩んでいってほしいと祈りを込めたのでしょう。その祈りと、りんご栽培の技術を応用した弘前独自の管理法が奇跡を生みました。ソメイヨシノの寿命は60〜80年といわれるなか、弘前公園には樹齢100年を超える桜が300本以上も存在するのです。しかも、そのうちの一本は「日本最古級のソメイヨシノ」で、樹齢130年を優に超えています。
新たな文化や技術を積極的に取り入れ、それらを伝統と融合させることで、先人たちの大切な思いを未来へとつないできた弘前の人々――。桜は、そんな彼らの真心の象徴でもあるのです。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)