いま心に刻む「存命の理」- 視点
今年も教祖誕生祭の”慶びの日”を迎える。
この誕生祭が初めて勤められたのは、昭和9年4月18日であった。以来、毎年勤められているが、それまでなぜ誕生祭がもたれなかったのか。
その理由については、民俗的な習慣との関わりも指摘されている。戦後、満年齢制(昭和25年)が施行されるまでは、一般には毎年、誕生日を祝う習慣が日本にはなかった。初誕生と初節句だけが祝われ、年齢は正月を迎えるたびに一つ年をとる「数え」であり、いわば正月がみんなの誕生日でもあった。教祖の誕生祭がなかったのも、そうした習わしによるものと考えられる。
昭和9年といえば、教祖50年祭活動の真っただ中で、現在の南礼拝場と教祖殿を中心とする昭和ふしんが進められ、前年秋には教祖殿新築落成奉告祭が勤められた。
のちに中山善衞・三代真柱様は、ご著書の中で次のように記される。
「教祖殿も、御存命の教祖のお住居であるという思案から、教祖にお仕え申し上げる気持を表す意味で、台所やお風呂場を備えた附属家を建てさせて頂きました。そして、生物を供えるのでなしに、煮炊きしたものを召し上がって頂き、お風呂にもお入り頂き、寝具をのべて夜分はおやすみ願う、現在のような形でお仕えするようになりました。更に、教祖がたすけ一条の御用をつとめられる場所として、御用場を造り、それを合殿で繋いで、今日、私達が親しませて頂いている教祖殿が出来上がったのであります」(『道しるべ』)
いつの世にも怠ってはならない極めて重要なことは、すべての「元」である教祖の御教えそのものに、私たち一人ひとりの信仰と行動を復する「復元」の努力である。
その意味において、教祖殿の普請や、教祖に対するお仕えの仕方、さらには教祖誕生祭の執行は、まさしく「存命の理」という御教えの実践にほかならないと思う。
(人)