つとめ一条の信念固めた証し – おやのぬくみ
遠州(現・静岡県)出身の諸井国三郎が初めておぢばへ帰ったのは明治十六年二月十日のこと。これより十日前、咽喉気の患いから危篤状態に陥った二歳の娘・甲子をおたすけいただいたことへのお礼参りであった。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』118「神の方には」に、このとき教祖の仰せにより“力比べ”をした様子が描かれている。
国三郎は、教祖が手首を握られるその力の強さに恐れ入るとともに、「神の方には倍の力や」とのお言葉を頂いた。
いよいよ信仰を篤くした国三郎が、遠州の地に講社(のちの遠江真明組)を結成したのは、それから間もなくのことである。
信者たちは翌月、おぢばからはるばる遠州へ派遣された高井猶吉、宮森与三郎らから、「よろづよ八首」と「一下り目」までの稽古を受けた。そして、初めての講社づとめが勤められると、不思議なたすけが次々と現れ、道は四方へ伸び広がっていった。
こうしたなか、講元の国三郎は、教理を修めるとともに、十二下りのてをどりをすべて身につけんと一念発起。半年後に二度目の帰参を果たすと、二下り目から十二下り目までを、わずか四日間で修得した。
滞在中、飯降伊蔵を通して「さあ/\珍らしい事や/\、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」とのご神言を頂いている。
その三日後、教祖にお目通りしたときのこと。教祖は「御苦労やったな」と、温かいねぎらいのお言葉をおかけくだされ、月日の模様の入ったお盃で御自ら召し上がられた後、その盃をお下げくださった。
翌年の三度目のおぢば帰りでは、国三郎は初めての団参を決行。一行は、白地に日の丸を描いた中に「天輪王講社」と大きく墨書し、その左下に小さく「遠江真明組」と書いたフラフ(旗)を立てて勇躍、おぢばの地を踏んだ。
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わずか四日間で十二下りのてをどりを修得したところに、国三郎の並々ならぬ意気込みがうかがえる。いまも“家の宝”として大切に保管されている三段重ねの盃は、国三郎のつとめに懸ける姿勢とたすけ一条の信念を、教祖がお受け取りくださった証しではないか。
つとめとさづけこそ、その心次第にご守護を頂ける“おたすけ人の宝”である。