「戦」の年を振り返る – 視点
今年の世相を表す「今年の漢字」が「戦」に決まった。また、米誌『タイム』恒例の「今年の顔」には、ウクライナのゼレンスキー大統領が選ばれた。
思い返せば、昨年の今ごろ、1年後の世界がこのような事態になっていると誰が想像できただろうか。21世紀の世界で、部族間の“衝突”や国家間の“紛争”を超えた、一方的な侵略に端を発する“戦争”が現実のものとなったのだ。
寒さと飢えに耐え忍びながら、なんとかこの冬を生き延びようとする数多の人々がいる。暗闇に身を潜めつつ待ち続けるのは、「敵」の撤退と「味方」による救援だろう。
「戦」は、常に「敵―味方」の構図をなす。「われわれ」と「彼/女ら」の対立が、あらゆる「戦」の根底にある。より正確には、「彼/女ら」を“敵”と見なすことで、“味方”としての「われわれ」が立ち上がると言うべきだろう。
この図式は、実は人間社会の――さらには言語の――本質的な特徴にほかならない。
「敵―味方」とは言わずとも、「われわれ」の自覚は、「われわれではない存在=他者」の意識とともに生起するのだ。
教祖は、世界一れつは「きょうだい」であり、他人というものはない、と教えられた。それは、親神様の「こども」としての人間が「をなしたまひい(同じ魂)」を与えられ、また、身体をかしものとして与えられているからである。そして、人間がこの真実を知れば「むほん(謀反)」の根は切れ、「よふきづとめ」に取りかかれば「たゝかい(戦い)」も治まるとも教えられている(おふでさき13号43‐51)。
先の図式からすれば、これは、「敵」や「他人(他者)」との関係で「われわれ」を捉える視点から、「をや」との関係性において「われわれ」を想像する視点への転換を迫るものと言えよう。つまり人間は、「敵―味方」の構図で「われわれ」を捉えるのではなく、むしろ「をや―こども」の構図で、「きょうだい」としての「われわれ(人間)」を自覚することが求められているのではないだろうか。
来年こそ「戦」が収まった、世界の“新しい景色”が見られることを望みたい。
(島田)