新春インタビュー 中田善亮・表統領に聞く(上)
“全教一手一つ”の旬にお道の再スタートを期す
いよいよ教祖140年祭へ向かう三年千日が幕を開ける。この”成人の旬”に、ようぼく一人ひとりが、をやの思いにお応えするべく、仕切って、たすけ一条の歩みを進めることになる。3年後を見据えつつ、私たちようぼくが年祭活動に取り組むうえで心に留めておくべきことは――。次なる一里塚へ向かう全教の歩みについて、中田善亮表統領にインタビューした。
節を前向きに捉える
――教祖140年祭へ向かう三年千日の踏み出しの年を迎えました。いまの率直な気持ちをお聞かせください。
昨年にご発布いただいた「諭達第四号」を拝し、いよいよという緊張感と責任を、ひしひしと感じています。
振り返れば、前回の年祭以降、かんろだいの節、真柱様のご身上、コロナ禍など、教内外に大きな節をお見せいただいています。しかし、シュンとしていても仕方ありません。これまでを振り返り、さまざまな反省のうえに立って、こうした節をいかに前向きに捉え、気持ちを切り替えていけるかが肝心です。
そのためにも、親神様、教祖はいま、教会本部はもちろん、一人ひとり、あるいは一教会に対して何を求めておられるのかを、お互いにしっかり考えていきたい。地に足をつけて、具体的な歩みを、気持ちも新たに進めていきたいと思います。
そういう意味で、今回の年祭活動は正念場であるとともに、お道が再スタートを切る絶好の機会だと感じています。
――三年千日を歩むうえで心すべき点を、あらためてお聞かせください。
「諭達」の冒頭で、真柱様は「全教の心を一つにしたい」という旨をお示しくださいました。これは、すなわち「全教の一手一つ」ということです。
お道には教会の〇周年など、いろいろな成人の旬がありますが、教祖年祭は全教の成人の旬です。まず、このことを一人でも多くのようぼくがしっかりと受けとめなければなりません。具体的に何をすべきかを考える前に、この全教の一手一つの旬を逃してはならないということを、初めに強調しておきたいと思います。
次に、年祭活動には三年千日という仕切り、つまり始まりと終わりがあります。だから、何ごとも先延ばしにしないこと。「明日からやろう」では、いつまで経っても始まらないし、あっという間に3年は過ぎてしまいます。まず腰を上げ、終わりをしっかり見据えながら取り組んでいくことです。
また、三年千日は「普段はなかなかできないだろうから、3年と仕切って頑張りなさい」という期間です。でも、途方もない目標を掲げる必要はありません。大事なのは、3年という期間に見合った目標を設定すること、そしてそのうえに、少し課題をプラスアルファすることです。「このくらいなら、なんとかできそうだ」では、仕切りの旬に応えることにならないと思います。
ただし、ようぼくが個人としての目標を立てるのは、難しい面もあるでしょう。そうしたことの起点になるのは各地の教会です。だから教会長がしっかりリードして、教会長を芯に一手一つになる。そうして全教の一手一つを目指すのです。これが、今回の年祭活動で最も重要な点だと思います。
まずは身近な人を意識
――今年5月末まで行われる「全教会一斉巡教」を経て、ようぼく一人ひとりは「諭達」の精神を胸に、どのように成人の歩みを進めていけばよいとお考えですか。
「諭達」の精神を心に治めるには、通り一遍ではなく、その”行間”をしっかり読まなければいけないと思います。
たとえば、ようぼくの具体的な歩みについて、「進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう」と示されています。
教会に足を運ぶというと、月次祭への参拝を思い浮かべる方もいるでしょうが、私は「日参」に重きを置くべきではないかと思います。日参している人にとって、月次祭参拝は言わずもがなです。距離や時間の面で日参が叶わないのなら、その代わりに、どうやって運ばせてもらうかを考えるのです。近くの教会に参拝してもいいし、あるいは手紙やお供えでつなぐなど、方法はいろいろあります。
ひのきしんも同様です。ひのきしんは、特に行事や大勢でなければできないことではありません。ようぼくの三信条にも「ひのきしんの態度」といわれるように、普段していることを、ひのきしんとしてできるようになることを目指すのです。広く捉えれば、家の掃除や仕事の場面ででも、気持ち次第でひのきしんになり得るということです。
また、にをいがけは、街角に立って不特定多数の人に呼びかけることだけを指すものではありません。大事なのは、自分が誰に対して、にをいを掛けようとするのかを明確にすることです。それを怠ると、にをいがけが行事化したり、一過性のものになったりしかねません。
ですから「諭達」にあるように、まずは身近な人を意識してみることです。それはたとえば、わが子や孫でもいいのです。家が教会や布教所だからといって、生まれたときから信仰を持っている人はいません。一人の人間として、にをいを掛けていかなければ、本人も信仰者としての自覚ができないまま大人になっていきます。ためらうことなく声をかけ、積極的に教えを伝えてほしいと思います。
「成程の人」に近づく
――「諭達」の”行間”を読ませてもらうには、どのような態度が求められるでしょうか。
あくまでも「諭達」は、この道を信仰する一人ひとりに対する、真柱様からのお声がけです。その内容は、真柱様が自分に対しておっしゃっていることだと受けとめることが大切だと思います。
そのうえで、たとえば「私たち」という言葉を「私」に置き換え、一人称で読ませてもらう。そのように捉えることで、おのずと”行間”も見えてくるのではないかと思います。こうした姿勢が自らの成人につながっていくのです。
成人とは、分かりやすく言えば「成程の人」に近づいていくということでもあると思います。では成程の人とは、どんな人を指すのか。明確な答えはありませんが、それほど難しく考える必要はないと思います。たとえば「この人に言われたら素直に聞ける」「あの人に頼まれると断れない」という人がいるでしょう。その人の物腰や普段の言葉のかけ方を、自らの手本としていくのです。それも、成程の人に近づく方法の一つだと思います。
そのためには、教えを深め、心に治めることが欠かせません。簡単ではありませんが、成程の人への歩みが、「ひながたをたどる」ことにもつながるはずです。
この3年間を一層の成人を図る契機として、各々が3年後に描く姿に向けて、精いっぱい動かせてもらいましょう。