天理時報2021年4月11日号6面
修養科の四季出直した母の口癖「すべて結構」を支えに第948期吉澤はつえさん26歳・東京都足立区・興野分教会所属3年前、母にステージ4の胆管がんが見つかりました。日ごとに病状が悪化する中も、喜んで日々を通る母。口癖は「きちんと神様に向き合って尽くせば、神様はすべて結構にしてくださる」でした。その言葉を胸に、私も母のたすかりを願っておさづけを取り次ぎ、大教会へ日参するなど、自分なりに神様の思いに沿えるよう、精いっぱい心を尽くしました。昨年2月、母は家族に囲まれながら安らかに出直しました。痛みのない穏やかな最期を迎えられたことを「ありがたい」と思う一方で、「なぜ全快しなかったのだろう。私の真実は、神様に届かなかったのかな….……..」という思いが、心に引っかかっていました。1ヵ月後、1年前に「一緒に志願しようね」と母と約束した修養科に入りました。十分に頂いていたご守護に気づき「前を向かなければ」という焦りを感じながら1ヵ月が過ぎると、2ヵ月目に不眠や肩の痛み、人間関係の悩みなど、次々と身上事情が重なりました。そんなとき、教養掛の先生から「お母さんが出直す前に、同じところの痛みを訴えていなかった?」と尋ねられ、ハッとしました。思い返せば、「母が少しでも楽になるよう、私に痛みを分けてください」と、おさづけの取り次ぎの際に祈っていたのです。思案する中で、母の世話取りに当たっていた当時の私ではなく、いまの私に、あらためて身上・事情という節を見せることで痛みを分けてくださっているのではないかと、悟ることができました。これまで、神様と心から向き合えていなかったことを反省し、すぐに教祖殿へ向かいました。そしてご存命の教祖の前で、感謝とともに、それまで抑えていた悲しみも含めて、泣きながら思いの丈をお伝えすることができたのです。以来、授業や周囲の先生のお諭しなど、自らの通り方を振り返る機会があるたびに、神様に心を沿わせることを意識するようになり、周囲の人たちのたすかりを強く願うようにもなりました。人のために祈る中で、自然と焦りや葛藤から解放されていきました。修了式が迫ったある日、ぶりに、母の最期の姿が頭をよぎりました。「ありがとう」と何度も口にする喜びに満ちた表情。味覚障害が一時的に治まり、大好きな甘い物を美味しく食べられたこと、お世話になった人にお礼を伝える姿、私と手をつなぎながら苦しまずに逝ったこと…………。母はもう十分にご守護を頂いていたのです。「神様は、母を結構にお連れ通りくださり、いま、私の心も救ってくださった。母の言う通り、神様に心から向き合い、人のために心を尽くして行動すれば、すべて結構にしてくださるんだ….[思えば亡き母は、修養生活の間も悩み苦しんでいる私を、ずっと側で見守ってくれていたのでしょう。考えていることの一つひとつに、うんうんと頷き、時には一緒に泣いてくれていたかもしれません。感謝の思いで胸がいっぱいになりました。修了後、新しい仕事に就くなど、自分なりの一歩を踏み出しています。これからも身近な人のたすかりを願うとともに、いつか子や孫に信仰の素晴らしさを伝えて、母が残してくれた想いを受け継いでいきたいです。始業式を終え、希望を胸に本部神殿へ向かう修養科生よろずの美の葉作家澤田瞳子SawadaToko胸の奥が温かくなる言葉たち時々、何気なく用いている言葉が、実は限定的な範囲でしか通じないと指摘されて驚く。たとえば私は昔から、炭が真っ赤に火を孕むことを「いこる」と表現していたが、先日、「それは方言です」と訂正を受けた。「懊る」の語が関西地方では音便変化により、「いこる」と変わっているらしい。思えば同じ日本語を使っていても、方言に業界用語、専門用語やスラングなど、人はそれぞれの生活に基づいた独自の言語体系をゆるやかに築いている。農業の世界で「取れ高」といえば収穫量、「作物」といえば農作物を指すが、テレビ業界の「撮れ高」は収録映像の中で実際の放送に耐える量の意であるし、能楽界の「作物」は能舞台上の簡便な装置を意味する――というように、それぞれの社会で用いられる語は似ているようで少しずつ異なる。一方で死語という言葉に集約される如く、一部の言辞は時代の中で忘れ去られ、代わりにまた新たな語が生まれる。その有為転変は現代社会の忙しさを反映してあわただしいが、なかには本来の意味から脱却し、がらりと生まれ変わる言葉もある。その一つとして注目しているのが、「嵐」だ。広辞苑を引けば、「荒く激しく吹く風」「暴風雨、台風」などと説かれるこの語句は、「万葉集」にも登場する古い言葉。とはいえ現代では、低気圧や台風、前線など、科学的な説明を含んだ表現にこの語は簡単に置き換えられてしまう。顧みれば私自身、最近、本来の意味で「嵐」と言ったかなと考え込んでしまうほど、昔ながらの「嵐」は今や遠い存在だ。では現代人がこの言葉をどんなタイミングで耳にし、また語るかといえば、それはやはり昨年末に活動休止をしたアイドルグループ「嵐」の名としてではあるまいか。つまり長らく日本人の日常用語であった「嵐」は、その存在意義を近代科学によって奪われた後、新たな固有名詞の地位を得たわけだ。もし、かのグループが存在しなければ、嵐は五月雨や春雨などと同様、利用頻度の低い古語になっていたかもしれない。「言葉は生き物」とよく言われるが、ただ何かを意味するのみならず、時代の知識や嗜好までをコンパクトに物語り、更に個々人の環境をも加味したそれは、生き物というより手作りのお弁当にどこか似ている。だから私は、知らない語に接すると、その方の作った食事を差し出されたようで、ぽっと胸の奥が温かくなる。そして今度はどんな味に出会えるのかと、次なる出会いが待ち遠しくなるのである。