天理時報特別号2021年4月号2面
心に吹く風の記ChakitaniYoshinobu茶木谷吉信1960年生まれ天理教正代分教会長教師・玉名市元教育委員子供にものを教える適任者は?4月。新入学の小さな子供たちが、ランドセルを背負って登校していきます。背負っているのか、背負われているのか分からないような後ろ姿が危なっかしく見えて、思わず「気をつけて!」と声をかけたくなります。子供のころは「子供は社会の宝」といわれても、「ボクが宝?」と全くピンとこなかったのですが、今になって分かります。やはり子供は社会の宝物です。すくすくと心豊かに育ってほしいものです。言うまでもなく、子供は周りの大人からいろんなことを吸収して育っていきます。良いことも、時には悪いことも、周りから情報を吸収しています。学校、地域、家庭、すべての環境が、その学びの場なのですから、どこで見られてもいいように、大人は良い見本でありたいものです。さて、私は日ごろから、子供に接する大人の一人として、気をつけておきたいと思っていることがあります。それは、子供にいろんなことを教える適任者はどういう人なのかということです。知識や経験が豊富で、何でも知っている人でしょうか。私は、実は違うと思っています。少し前のパソコンの取扱説明書、あるいはスマートフォンの取扱説明書を思い出してみてください。分厚くて、事典のようなマニュアルでした。文字が小さくて意味も分かりにくく、最初に全部読むのはとても無理。とにかく使いながら覚えていった記憶があります。最近は、それすらもなく、機器の中にデジタル化されて入っていることが多いようです。そもそも機械もののマニュアルは、どれも難しいものです。なぜ、ああいう難しいマニュアルになるのでしょう。それは「パソコンやスマートフォンのマニュアルを書く適任者は、ほかの誰よりもパソコン、スマートフォンに詳しい人である」という誤解から生まれているのだと思います。こう書くと、「えっ、違うの?」と思われるかもしれません。いや、合っています。詳しくなくては教えることはできません。しかし、それだけでは足ないのです。実は意外にも、私たちが知れば知るほど失うものがあります。それは〝知らない人の目線”です。コンピューターを知らない人、スマートフォンを知らない人が、初めてそれらを触ったときに抱く緊張感のようなものです。詳しく知れば知るほど緊張感はなくなり、その知識はいつの間にか当たり前になる。知っていることを全部教えたくなり、説明も、より詳細で複雑になる。その結果、一番伝えねばならないものが伝わらないのです。