天理時報2021年1月17日号2面
視点他宗教のエピソードに思う先日、長崎市にあるカトリニックの大浦天主堂を訪れる機会があった。潜伏キリシタンに強い関心を持つ筆者にとって、思わぬ幸いだった。歴史を振り返ると、15世紀末にヨーロッパで大航海時代が始まると、長崎にもポルトガル船が入港するようになる。ポルトガル貿易はキリスト教の布教と表裏一体であり、キリスト教を保護する戦国領主も少なくなかった。洗礼を受けたキリシタン大名も現れ、民衆が次々とキリシタンに改宗した。しかし、キリスト教が繁栄した地域では在来宗教に対する迫害が起き、キリシタンが神社仏閣を破壊するようになる。豊臣秀吉は1587年、伴天連追放令を出し、布教と大名の信仰を禁じた。9年、漂着したスペイン船の船員が「スペインは宣教師を派遣して人々を改宗させ占領しようとしている」旨を話したため秀吉は激怒し、宣教師や修道士、信徒など計25人を長崎で十字架にかけ処刑した。うち5人は10代であった。その後、20年にも及ぶキリシタン弾圧期を経て、殉教者らはローマで聖人に認定され、「日本二十六聖人の殉教」と呼ばれるようになる。筆者が訪れた大浦天主堂は1865年に完成し、「日本二十六聖殉教者聖堂」と命名された。幕府は38年に開国したものの、いまだ禁教令が残っており、教会は居留する外国人用のものであった。そんな大浦天主堂が完成して1カ月後のある昼下がり、信じられない事件が起きる。それを伝えるプティジャン神父の手紙には「昨日22時半ごろ、男女子供を合わせて22~15人の一団が天主堂の門にいました。私が聖堂に案内して祈ると、40歳ないし50歳くらいの婦人が胸に手をあてて申しました。『私どもは、全部あなた様と同じ心でございます。浦上村では全部の人が同じ心を持っております』」と記される。禁教令下、拷問や虐殺が繰り返されて2世紀を経て、信徒は一人もいないはずだった。宗教史上の奇跡と呼ばれる「信徒発見」である。江戸幕府のキリシタン禁制を踏襲した明治政府は、キリスト教の信仰を公にした浦上村の信徒約3千000人を総流刑とした。流刑地では、過酷な労働や非人道的な拷問などで600人以上が死亡。この弾圧に欧米の激しい抗議が相次ぎ、1873年2月、明治政府はついに禁教令を撤廃する。当時のままの聖堂にたたずみ、「信徒発見」の場面を思い浮かべる筆者に、一つの問題意識が生まれた。つまり、それまで同一のものと考えていた「潜伏キリシタン」と「かくれキリシタン」は、全く違うものであるということだ。そもそも「キリシタン」とは、キリスト教を意味するポルトガル語であり、学術的には禁教期の潜伏信徒を「潜伏キリシタン」といい、1873年の信仰解禁後も教会に属さず独自の信仰形態を継承している人々を「かくれキリシタン」として区別している。その是非はともかく、道は大きく分かれた。「信徒発見」に象徴されるように、カトリックに復帰した「潜伏キリシタン」は集落に教会を建て、信仰を隠すことをやめる。正しい教理を伝える教会の役割は大きく、今、日長崎県内には13のカトリック教会があり、全国の教会の1.4が集中している。教会の元になっているのは、禁教以前の信仰共同体が変化した潜伏組織である。組織には、神父に代わって信仰生活の規範を司る者や、洗礼を授ける役職者がいて、オラショ(祈り)や教理を伝承した。70年にも及ぶ禁教令下に、何代にもわたって親から子へ、子から孫へ脈々と信仰が伝播した事例は世界に類を見ない。一方、宣教師の布教を拒み、信仰を隠していた禁教令下の信仰形態を続ける「かくれキリシタン」の家には神棚や仏壇があり、長い年月にわたり教会や聖職者との接触が絶たれたため、キリスト教の信仰に土地の風俗や習慣、仏教・神道の要素が入り交じり、土着の宗教に留まったまま今日に至っている。継承者はほとんど見られず、その数は減少の一途をたどっているという。2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界遺産に登録されたが、潜伏キリシタン遺産は、世界遺産価値を「潜伏キリシタンの信仰」としているため、「かくれキリシタン」に重きを置いていない。コロナ禍によって従来の活動ができない本教信仰者の今後の歩みを思うとき、「潜伏」と「かくれ」の例は、困難な状況にあって、「順応」か「変容」かを誤ってはならないエピソードとして覚えておきたい物語である。(人)過ぎし一年を振り返り12月月次祭立教18年の〝納めの月次祭〟は昨年12月2日、中山大亮様祭主のもと、本部神殿で執り行われた。新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、本部神殿にはつとめ人衆をはじめ、直属教会長、教区長、各地から帰参した教会長が昇殿した。この日の親里は、時折、冷たい風が吹きつけるものの、柔らかな冬の日差しが降り注ぐ穏やかな日和となった。大亮様は祭文の中で、今年は新型コロナウイルスの感染が世界中に拡大し、教内においてもさまざまな活動の中止、制限などの対処をせざるを得なかったことを振り返ったうえで、「御前には、つとめ人衆と代表の者が登殿させていただき、この一年に賜りました厚き御恵みとお導きに心より御礼申し上げ、打ち続く不安な状況の収まりを願い、一心につとめる状をご覧くださいまして、親神様にもお勇みくださいますようお願い申し上げます。私ども一同は、過ぎし一年を振り返り、自らの足取りをひながたに照らして思案し、一層の成人を期して、この節から芽を出すご守護を頂けるよう、つとめ励ませていただく決心でございます」と奏上された。この後、かぐら・てをどりが陽気に勤められた。おつとめの後、島村廣義・本部員が神殿講話に立った。島村本部員は、真柱様の昨年1月の年頭あいさつや教祖100年祭の神殿講話を引いたうえで、ようぼく一人ひとりが日々の暮らしの中で信仰の元一日を忘れず、ご恩報じの心をしっかりと受け継ぎ、ひながたの道を通らせていただくとともに、自分の後に続く子や孫たちにバトンを引き継げるよう、信仰の喜びや素晴らしさを伝えていくことが大切であると話した。この後、コロナの感染拡大に伴う本教の動きを振り返ったうえで、いま私たちが成すべきことは、世の中の治まりを願っておつとめを命懸けで勤めることであり、身近なところからおたすけ、ひのきしんを実行することであると語った。最後に島村本部員は、容易ならぬ大節をお見せいただいているときだからこそ、親神様・教祖にお受け取りいただき、お働きいただける理づくりの大切さを強調。自分の周囲を見渡し、具体的な目標を定めて、親神様にお受け取りいただける真実のつくし・はこび、伏せ込みを実行させていただこうと呼びかけて、講話を締めくくった。12月月次祭は、直属教会長や教区長と共に各地の教会長が昇殿して勤められた(昨年12月26日)グラフ特集立教184年新春の親里〟立教184年を迎えた親里は、連日、冬晴れが広がり、ようぼく信者が教会単位や家族連れで帰参し、親神様教祖に新年のあいさつを申し上げる姿が見られた。新玉の年を迎えた新春の親里〟の様子を写真で紹介する。元旦祭が勤められ、教祖殿での祭文奏上が終わるころ、大和青垣の山並みから初日が昇った(1日)ようぼく・信者が教会単位や家族連れで初参拝する姿が見られた(2日、神苑で)〝新春の親里〟は冬晴れが広がった(2日)別席始めに合わせ、願い出る帰参者(2日、別席場で)が本供部え神ら殿れのた上段に2は日小餅和楽「われは巨燵君は行脚の姿かな」(正岡子規)句の前書きに「芭蕉翁像に対す」とあることから、旅姿の「君」、すなわち松尾芭蕉が描かれた掛け軸を眺めながら詠んだものだろう。あなたはいつも旅に出ていますね、私は巨燵でぬくぬくと過ごしています―――。芭蕉の弟子・森川許六によれば、芭蕉は「旅は風雅の花」と言い残したという。ここでいう風雅は俳句のことで、芭蕉句作において旅、現代風にいえばフィードワークをいかに重視ていたかがうかがえる冒頭の句は、病弱な子規が旅に出られない寂しさを込めたとも読めるが、持病の結核が進行する前の作であることを考えれば、健脚の芭蕉と室内にこもる自分を対比しつつ「外へ出ずとも、あなたに劣らない仕事をしてみせる」といった、俳人としての気概のようなものも感じさせる。この時代の巨焼の熱源は、主に囲炉裏や火鉢だった。巨燵の中で燻る炭火のように、すでに若き日の子規には、偉大な先人への静かなライバル心が芽生えていたのかもしれない▼本稿を書いているさなか、この冬一番の寒気が日本の上空を覆った。筆者の住む九州北部でも積雪があり、雪に慣れない土地柄ゆえ、車の運転にしても徒歩にしても、出かけるのにひと苦労である。犬のように喜び、庭を駆け回っているのは子供たちばかりで、こんな日は猫のように、暖かい部屋で体を丸くして過ごしたくなるものだコロナ禍が収まらない中で、いまできることを模索しつつ迎えた新年。子規のように、ぬくぬくとしても頭は冴え、気の利いたアイデアの一つでも浮かべばいいが、あいにく、そううまくはいかない。窓の外を見ると、日が差して雪が少しずつ解け始めている。機を逃さず動けるよう、心と体の準備運動だけは、しっかりやっておかなければ。(南)お気軽にお電話ください教会長おたすけ相談室■受付専用ダイヤル0743-63-1641春季大祭26日(火)11:30時刻表気楽に読める信仰と教養の家庭雑誌陽気1月号定価260円(税込)(毎月1日発売)養德社天理書展作品募集主催天理書会後援天理教布教部