天理時報2021年1月1日号1面
明けましておめでとうございます。旧年中は、それぞれの立場から道の上に心をかけてお勤めくださり、誠にありがとうございました。私たちは、お借りしている身体をはじめとして、親神様の絶えざるご守護のもとに生きています。いま、世界的に大変な状況ですが、日々の暮らしの中に感謝と喜びを忘れないことが大切でありましょう。そして、ご恩報じの道を勇んで歩ませていただきたいと思います。本年もよろしくお願いいたします。立教一八四年元旦真柱中山善司教史再彩“道のさきがけ”を今にモノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。その彩色された世界から見えてくるものは—。先人の志受け継ぎ新たなChallengeへいまから約100年前の大正9年11月、天理教校別科生は神戸・湊川遊園地付近で路傍講演を行った。「天理教講演」と墨書した旗の右奥で、台の上に立っているのが弁士であろう。「(神戸)湊川の遊園地の一角に床をすえて、高張を高揚して立ったとき、物珍しげに公衆はすでに周囲を取り巻いてしまった。(中略)五人の弁士が舌も爛れよと獅子吼する聖音に誰一人身動きをしようともせずして聞き込む厳粛さ。利欲の砦に彷徨する聴衆の耳に、される天来の福音。地上の現実とも思われぬ聖い数時間であった――」(『みちのとも』大正9年12月号から)明治4(1908)年、本教は念願の一派独立を果たした。本教への社会的認知が次第に広がるなか、第一次世界大戦が終結した大正7(1918)年に天理教青年会が創立されると、若き布教者たちは戦後の国民思想を「だめの教え」によって牽引する気概をもって、スペイン風邪の流行期に、各地で講演会を開いて熱弁を振るった。さらに9年夏、青年会東本支会が、当時の布教方法としては画期的であった大道演説(路傍講演)を東京と大阪で立て続けに成功させた。これに呼応して、天理教校長の増野道興は「街頭に立て、巷に出でよ、その声を高うして、天理王命の名を唱えよ」(「みちのとも』大正9年10月号)と教内へ檄を飛ばした。こうしたなか、同年の本部秋季大祭の前後、親里で路傍講演に立った天理教校講演部は「三島の天地を狭し」として、「精神的に枯渇しているこの大都市の人々を覚醒せしめねばおかぬ」と決意。11月、大阪、京都、神戸への遠征を決行した。大阪・通天閣前では、初日だけで300人もの聴衆を集め、切実な社会問題などについて教理に基づき説き分けた。さらに、神戸・湊川遊園地での路傍講演には、3日間で1千余人が参集。最終日、教校生たちが雨天と疲労から引き揚げようとすると、聴衆から「止めるな止めるな、続けてくれ」との声が上がり、結局、夜11時すぎまで話を続けたという――。折しも当時は、明治初期に続く〝第二次演説ブーム”のさなか。演説という形を取った大衆への呼びかけが大きな社会的影響力を持っていた。特に大正期には、雄弁会や弁論部の学生による演説が盛んになったことから、本教の青年会員や天理教校生は「だめの教え」を奉ずる自負を胸に、やむにやまれぬ思いで街頭に立ったに違いない。その志を受け継ぐ私たちは、混迷を深めるこの時代に、どのような形で、どんなメッセージを悩める人々の心に届けることができるだろうか。いま、一人ひとりの新たなチャレンジが始まっている。大正末期、路傍講演などで用いられた『天理教伝道歌』の一部が聴けます。