天理時報2020年12月13日号1面
特別企画新ひながた風景をたずねて岡田正彦天理大学教授第一話…天理市園原町からおぢばへお屋敷へ通い詰めた先人その足どりをたどって教祖が現身をもって働かれていた時代、教祖から身上・事情を直々にたすけられた先人たちは、ご恩報じの思いを胸に、教えを求めてお屋敷へ足しげく通った。長男・楢蔵の身上をたすけられ、夜となく昼となくお礼参りに通い詰めた西浦弥平もその一人。「新ひながたの風景”をたずねて」第二十一話では、天理市の南東、園原町にある弥平の旧宅から2㌔先のおぢばを目指した。あっという間に猛暑の夏が過ぎ去って、実りの秋になりました。つい先日も、庭先の木から落ちた栗を焼いて、秋の味覚を楽しんだばかりです。スカッと晴れた秋空の下で、落ち葉や木の枝をかき集めて焼いた栗ちゅくつの香りは、あまり外出できずに鬱屈した気分をリフレッシュさせてくれました。とはいえ、季節の移り変わりは早い。もう朝夕は、晩秋というより初冬の空気が漂っています。お屋敷へ通った往時の道を歩く今回は、なかなか秋空のようにはスカッと晴れないコロナ禍の現状を考慮して、おぢば周辺に教祖や先人の足跡を偲ぶ場所を探し求め、天理市園原町にある西浦弥平旧宅を訪ねました。弥平は、明治7年に長男のジフテリアをたすけられて入信します。入信後の弥平は、教祖からお話を聞かせていただくために、昼夜の別なく足しげくお屋敷へ通いました。ほどなく、隣家の上田嘉助が入信してからは、二人連れ立って毎日のように教祖のもとへ足を運んだと伝えられています。旧西浦宅は、天理市から桜井方面へ向かう「山の辺の道」の南ルートの途上にあります。園原町から中山家へは、直線距離にして2㌔ほどでしょうか。内山永久寺跡から石上神宮へと続く道は、現在も多くの人々が通っています。しかし当時は、おぢばへ向かう道が、ほかにもいくつかありました。今回は、かつて弥平が頻繁に通ったとされる旧道をたどってみました。往時は田畑が広がり、中山家までの道のりがすべて眺望できたそうです。いまの旧道は、深い竹やぶに覆われており、一見しただけで道を見つけるのは難しい状態です。そこかしこに倒木があり、大木を跨ぎ、折れた竹を踏みしめながら、道なき道を進みます。道の形状を残している場所も、多くは笹が生い茂り、ほとんど藪の中を漕ぎゆくような強行軍です。途中でフェンスに足を引っかけてズボンが破れるというアクシデントに見舞われましたが、なんとか杣之内町にたどり着くことができました。そこから先は、西へ下って、有名な西山古墳を迂回して教会本部へ向かいます。毎日のように教祖のもとへ足を運んだ弥平は、この道を何度往復したでしょうか。秋空のもと、おぢばへ向かって歩いていると、何げない里山の風景の美しさに足を止めて見入ってしまう場面が度々ありました。園原から中山家まで一望できた当時は、もっとのどかな田園風景が広がっていたでしょう。事跡からにじみ出る教祖への思慕と探求心弥平はなぜ、それほど頻繁に教祖のもとを訪ねたのでしょうか。入信の時期は、園原村の戸長をしていたとされるころと重なりますので、あまり時間に余裕があったとは思えません。それでも昼夜を問わずお屋敷へ通った事跡には、教祖への思慕とともに、教祖の説かれる教えへの強い探究心を感じます。『稿本天理教教祖伝逸話篇」38「もっと結構」には、弥平が日参をはじめたころのエピソードが次のように伝えられています。ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。まるで禅問答のような、深い言葉のやりとりがなされています。常識で判断すれば、盗難を防げたことは「結構」です。しかし、教祖の目には「もっと結構」な世界が見えているのです。このとき弥平は、教祖のお言葉の中に、一般常識はんちゅろで判断できる範疇を超えた、広大無辺な親心を感じたのではないでしょうか。そして、教祖の説かれる教えの深遠さに、あらためて気づかされたのかもしれません。その後もお屋敷へ通い続けた弥平は、教祖から教えを聞かせていただくばかりでな「みかぐらうた」や「おふでさき」などを丹念に書き写しました。かつて、この連載で明治16年の雨乞いづとめを紹介した際に、実際に着衣した黒紋付とともに、弥平が書写した「みかぐらうた」や「おふでさき」を拝見しました。まるで定規を当てたように、整然と書写された「おふでさき」は、最後のお歌までしっかりと書き写されていました。書写の文字は極めて達筆であり、膨大な量のお歌が、とても丁寧に書き写されていることに感銘を受けました。しっかりと書き記された文字の一つひとつに、「神の言葉」を書き留める気概と求道心を強く感じたことをよく覚えています。教祖のお言葉の中に深遠な真理の存在を感得したからこそ、多忙な中も足しげく教祖のもとへ通って教えを学び、原典を書写する探求心が生まれたのでしょう。日常的に教会へ足を運び、原典を拝読する機会を与えられている私たちも、こうした先人の姿勢を見習いたいものです。秋の夕日に染まる園原町の田園風景弥平が通った旧道。現在は竹が生い茂り、道がなくなりかけている旧西浦宅から教会本部までの道のり弥平が写生した「おふでさき」。書き写した日付と名前が表紙に記されている弥平旧宅(写真左上)。天理市園原町界隈(写真右上)。同町の旧道を通って杣之内町内へ。この道はかつて、内山永久寺の参道として整備されていた(写真右)おやのことばやまひのすつきりねはぬけるこゝろいだん/\いさみくる「みかぐらうた|四下り目※下段「おやのこころ」参照教会本部12月月次祭の参拝について新型コロナウイルス感染拡大防止の対策として、教会本部の12月月次祭には、ようぼく・信者の皆様の参拝をお控えいただき、各教会・布教所、自宅などから遥拝をお願いいたします。立教16年12月9日天理教教会本部おやのこころ天理大学ラグビー部が「ムロオ関西大学ラグビーAリーグ」で年連続12度目の優勝を飾り、全国大学ラグビー選手権大会へと駒を進めました。同部は近年、着実に力をつけ、大学選手権では過去10年間で準優勝2回、4強2回などの好成績を収め、いまや大学屈指の強豪へと成長しました。なかでも今年は、昨年のメンバーの大半が残り、「日本一」を目指して、コロナ禍中での練習を重ねていました。そんななか、関西のリーグ戦を間近に控えた8月、部内で新型コロナウイルスの集団感染が発生し、約1カ月間の活動休止を余儀なくされたのです。誹謗中傷などが寄せられるつらい経験をした一方で、各方面から温かい支援・応援の声が届き、前を向く原動力になったといいます。松岡大和主将は、選手権を前に全部員の思いを代弁して、「自分たちを支えてくれた、その声に応えたい。感謝の気持ちだけじゃなく、日本一という結果で恩返ししたい」と力強く話しました。「八ッやまひのすっきりねはぬけるこゝろハだん!~いさみくる」集団感染という大節を乗り越えて関西5連覇を成し遂げたいま、同部のスローガンである「一手一つ」の心で大学選手権に臨み、勇ましい姿を見せてくれると確信しています。その先に、きっと〝日本一の景色〟が見えてくることでしょう。まずは1日の準々決勝の花園。正月二日の準決勝・秩父宮、そして決勝の新国立での試合を楽しみにしています。(あ)人間いきいき通信令和3年1月号=西菌和泉コラム弥平の日参についての証言弥平が信仰の道に入った初期のころの話として、『教祖の御姿を偲ぶ」(上村福太郎著)には、上村氏が、内山永久寺内に生まれ育った櫟本分教会の松田こまから聞いた話として、次のように記されている。「内山の上の園原村の西浦弥平様と上田嘉助様(嘉治郎先生)のお二人は毎日小さい弁当包みのようなものを腰にされて、園原から私の家の所有の大きな蜜柑山のまん中の道を永久寺におりてこられ、本堂池のそばを通って北への道をいそがれました。その有様が今でも目に見えてくるようです。私の父は、『弥平さんと嘉助さんは、からすの鳴かん日はあっても感心なものやわよ必ず庄屋敷の神さんところへようききに行かはんね」といつも申しておりました」立教16年1月期の修養科と三日講習会について12月期に引き続き、立教16年1月期も修養科生の受け入れを行います。また、立教16年1月15日からの三日講習会Iについても開催いたします。なお、修養科の志願者ならびに三日講習会の受講を希望する方は、くれぐれも体調管理につとめていただきますようお願いいたします。立教16年12月9日天理教教会本部