たすけ合う心を身につける – 視点
ケンブリッジ大学名誉教授で動物行動学の権威でもあるパトリック・ベイトソン氏は、人間の「本能」の代表的な意味として九つの定義を挙げている。たとえば「学習なしでも存在する性質」、あるいは「発生的に強靱で、経験からの影響を受けない性質」などの項目がある。
作家の司馬遼太郎氏は、かつて小学6年生の国語の教科書に書いた『二十一世紀に生きる君たちへ』という文章の中で、次のように子供たちに語りかける。「助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。『いたわり』『他人の痛みを感じること』『やさしさ』みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである」と。これは、先の動物行動学者の本能の定義に矛盾するものではない。
このたびの「諭達第四号」には、「一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている」とお示しくだされる。司馬氏によると、人が助け合うという気持ちや行動の元となる感情は本能ではなく、訓練(努力)によって身につけなければならないものだという。確かな根拠はないが、おそらく、そういう要素はあると思える。
教祖は「貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』4「一粒万倍にして返す」)と仰せくださる。人の痛みや苦しみは決して想像で推し量れるものではない、ということであろう。司馬氏の言う「訓練」という言葉を連想する。
望まぬことではあるが、この旬にお見せいただく身上・事情は「難儀なる者の味」が分かるという点において、教祖のお心に、わずかなりとも近づかせていただく尊い歩みではないかと思案させていただく。
(橋本)