思いを継ぐ一夜の出会い – 日本史コンシェルジュ
江戸時代中期、国学者として名を馳せた賀茂真淵が、お伊勢参りの帰りに松坂(現在の三重県松阪市)に宿を取り、疲れた身体を休めていると、本居宣長と名乗る青年が面会を求めてきました。
宣長は、昼間は町医者をしながら、夜は国文学の研究をしていることを告げ、いずれ古事記の注釈書をまとめたいという思いを、真淵に熱く語りました。
「それは素晴らしい」と、真淵は大いに喜びましたが、一つ提案をしました。古事記の前に万葉集を研究すべきだと。実は、古事記や万葉集は、万葉仮名で書かれています。たとえば「八雲立つ」は、万葉仮名で「夜久毛多都」と表記されます。先人たちは、漢字の持つ意味よりも音を正確に伝えることを優先し、大和言葉の音に漢字を当てはめていったのです。
万葉集には4,500首を超える歌が収められていますが、そのうち約4,200首が短歌です。短歌は、五七五七七の31音。長い古事記の文章に挑む前に、短歌を中心とした万葉集でお稽古をすればいいと、真淵は勧めたのです。
それに、日本人は古来、歌にこそ真心を込めてきました。古事記の解明には、外国から伝わってきた文化の影響を受ける前の、純粋な大和心を理解する必要があり、その混じり気のない日本人の真心を知るには、万葉集が最適と真淵は考えたのでしょう。
さらに真淵は、宣長に思わぬことを伝えます。いずれ私も古事記を研究するつもりで、万葉集の研究を始めた。しかし、万葉集の研究をようやく完成させたところで、すでにもうこの年齢(当時67歳)。私にはとても古事記研究をまとめることはできない。でも若いあなたなら、それができる!しっかり頑張りなさい、と。これは、真淵が何十年も研究してきた成果を「あなたにすべて譲る」ことを意味しています。
この日、宣長は真淵に弟子入りをしましたが、二人が直接会ったのは、このとき一回きり。宝暦13(1763)年5月25日に起こったこの出来事は、「松坂の一夜」と呼ばれます。
この後、二人は江戸と松坂の間で何往復も手紙を交わしました。つまり賀茂真淵は、通信教育で大国学者・本居宣長を育てたのです。そして宣長の素晴らしい研究により、万葉の歌人たちが輝き、古事記の神々がよみがえり、源氏物語を著した紫式部が光を放つようになりました。松坂の一夜は、日本文化史に燦然と輝き、不滅の光を放っています。