第38話 新しく生まれ、はじまるもの – ふたり
しばらく前から、ハハは再び海に出るようになっている。といっても波乗りはしない。ただボードに乗って海面を漂っているだけだ。夏のあいだは、日差しと暑さを避けて夕暮れや夜に出かけることが多い。ときどきカンも一緒だ。
秋が近づいた満月の夜だった。満月と新月の日には月と太陽と地球が一直線に並ぶので、干潮と満潮の差が大きくなる。満月の日には出産が多いとも言われる。犯罪が多いというデータもあるそうだ。月の引力のせいで人の心も波立つのかもしれない。犬の場合はどうだろう?
「海に出ると、トトを身近に感じる」。ハハは静かな声で言った。「こうして波に揺られているのが自分なのか、トトなのかわからなくなる」
夜の海は、昼間とは別の世界のように感じられる。海には違いないけれど、どこか別の惑星の海みたいだ。
「いまでもよく思い出すの」。ハハはつづけた。「あんなこともあった、こんなこともしたって。映画の一コマみたいなものだけど、その一瞬が、永遠のようにも感じられる」
ハハの横でボードにまたがったカンは、手のひらで水に映る月の光をかき乱した。トトと最後に海に出たときのことを思い出しているのかもしれない。水を掻いてボードを進めるトトの手は大きかった。水を切って進むボードの先で、夜光虫の発する緑色の光が飛び散った。いまではカンの手も、あのときの父と同じくらい大きい。
「トトがいなくなって、いまはわたしがトトを生きている。そういう言い方もできるかもしれないけれど、それだけじゃない気がする。もっと先があるような気がするの」
あのころハハは、夜中に一人でよく海にやって来ていた。夜の海なら、人目を気にせずに心ゆくまで泣くことができる。たぶんカンは知らない。わたしだけが知っている。わたしとハハの秘密だ。
「いまでもトトを想うとき、死という言葉は消えている。それはどこか遠いところにあるように感じられる。何かが生きつづけ、つながりつづけている。そういう場所がある気がするの。年を経るごとに、そんな思いが強くなってきた。人が生きることは、生とか死とか言われているものよりも、ずっと大きなことかもしれないね」
彼女は言葉をおいて空を見上げた。秋の空いっぱいに星が輝いていた。
「いつかハハがいなくなって、カンがひとりぼっちになっても、悲しんだり寂しく思ったりする必要はないのよ。わたしたちのあいだにはけっして終わらないもの、新しく生まれ、はじまるものがあるはずだから」
作/片山恭一 画/リン