きりなしふしんの嚆矢――つとめ場所 – おやのぬくみ
立教から約25年、50年のひながたの中間に当たる文久、元治のころ、教祖にたすけを願い出る人々が増え始め、お屋敷の建物の手狭さが目立つようになった。
当時、母屋はすでになく、古い粗末な8畳と6畳の二間が教祖のお住まいであった。目標として御幣が祀ってあった8畳の間は、信者が寄り集まる場所ともなっていたが、毎月26日には参拝者が室内に入りきれず、庭まで溢れるありさまであった。詣り所の普請を望む声が上がるなか、元治元年7月26日、のちの本席・飯降伊蔵が、妻おさとの産後の煩いをおたすけいただいたことへのお礼に、お社の献納を願い出た。
「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ」「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない」「つぎ足しは心次第」
このとき居合わせた人々が、教祖のお言葉をもとに相談を重ねた末、3間半に6間の建物を建てる心を定め、それぞれ費用や瓦、畳などを引き受けることにした。さらに翌月26日、特に熱心な人々によって金5両が寄付金として持ち寄られ、大工であった飯降伊蔵の采配のもと普請開始。お屋敷には連日、勇ましい鑿や槌の音が響いた。
立教の元一日に縁ある10月26日に棟上げが行われたが、翌日に起こった大和神社の一件によって、日の浅い信者の中には信仰をやめる者もあり、出来かかっていた講社もぱったり止まってしまった。普請は暗礁に乗り上げたように思われたが、伊蔵夫妻の真実の伏せ込みによって内造りは着々と進められ、やがて、つとめ場所は完成を見る。
建物は当時、6畳三間と8畳二間のほか、北西には上段の間と、親神を祀る神床が設けられた。
教祖は、上段の間の西寄りに置かれた壇で、終日、東を向いて端座され、寄り来る人々に諄々と思召を伝えられた。
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つとめ場所は、明治21年の教会本部開筵式に伴い、かんろだいのぢばを囲んでおつとめができるよう、南側に増築が行われている。その後、北礼拝場の建築に当たり、仮神殿ができる明治44年まで、本教最初の神殿として用いられた。心の成人を図る機会として道の伸展とともに続いてきた、きりなしふしんの嚆矢となる建物である。