信心のよろこび スペシャル – 森谷昌久さん
教会住み込みのようぼく弁護士
骨髄移植を乗り越え人だすけへ
神戸市の森谷昌久さん(72歳・天浦分教会ひふみ布教所長)は長年、教会に住み込みながら“ようぼく弁護士”として勤める傍ら、休日には教友と共ににをいがけ・おたすけに励んできた。その間、約20年前に骨髄移植手術を受け、奇跡的なご守護を頂くなど、数々の節を経験した。3年前に弁護士を廃業してからは、教会の御用に専従している森谷さんが、いま感じる“信心のよろこび”とは――。
「永らえさせてもらったこの命。人だすけに尽くして、ご恩を返したい」
所属教会の神殿でぬかずく昌久は、これまで経験してきた数々の節を振り返りながら、生涯おたすけに努める決意を新たにした。
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弁護士として依頼者の相談に耳を傾ける多忙な日々を送っていた。体に異変が起きたのは52歳のとき。仕事中、急に頭が痛くなり、近くのクリニックを受診したところ、別の病院を紹介された。
後日、紹介先の病院で診察を受けると、「『骨髄異形成症候群』。いわゆる血液のがんです」と告げられた。
長女の身上から教会に
信仰2代目。高校時代、人の手だすけができる仕事に就くことを志し、関西大学法学部へ。弁護士を目指したが、司法試験を突破することができず、大学卒業後も勉強に明け暮れた。
そんな生活が6年目を迎えたころ、木下範三・天浦分教会前会長(当時は会長)から修養科を勧められた。いったんは断ったが、長期にわたる“机に向かう日々”に肉体的・精神的疲労を感じていたこともあり、29歳のとき志願。勉強から解放され、何ごとも楽しく感じられた昌久は、授業やおてふり練習に積極的に取り組み、のちに妻となる伸子と出会うなど、充実した3カ月を過ごした。
修了後、心身ともに回復した昌久は、気持ちも新たに勉強を再開。結婚を経て、32歳にして司法試験に合格。念願だった弁護士の道を歩み始めた。
「あのとき前会長に修養科を勧められていなかったら、いまの私はいない。前会長には感謝してもしきれない」
39歳のとき、大阪市内に太陽法律事務所を共同設立。3人の子供に恵まれ、公私ともに充実した生活だった。
ある日、一つの節が訪れる。
42歳のとき、5歳の長女・昌代が「ユーイング肉腫」と診断された。病気の進行が早く、足の腫瘍はみるみるうちに大きくなった。昌久と伸子は娘の身上をご守護いただきたい一心で教会へ足を運び、たすかりを願ったが、昌代の病状は回復せず、歩くこともままならない状態に。
そんななか、同教会に住み込みながらにをいがけ・おたすけに励む教友から、教会への住み込みを提案された。昌久は多忙な弁護士業をこなしながらの教会生活は困難だろうと思ったが、夫婦で相談を重ね、昌代の身上のたすかりを願って家族での教会住み込みを決めた。
昌久は教会から仕事へ通い、休日にはにをいがけ・おたすけに歩いた。そんななか、一時は回復の兆しが見られた昌代が、教会に住み込んで3カ月後に息を引き取った。
当時の心境について、昌久は「わが子を失った悲しみから、妻と涙する日々だった。しかし、教会に住み込み、大勢の方々に支えられたおかげで、つらい道中も通ることができた」と振り返る。
「一日一人、おさづけを」
昌久が「骨髄異形成症候群」を患ったのは、住み込んで10年ほど経ったころ。医師から病名を聞かされたとき、「大変なことになった」と思ったが、当初は比較的症状が軽く、通院しながら仕事をする生活を続けた。
ところが、1年ほど経過したころに容体が悪化。神戸市内の病院に入院することになった。
医師から「あと1年の命です。助かる道は骨髄移植しかありません」と告げられた。あらためて身上の深刻さを知った昌久は、死の恐怖が頭から離れず、仕事仲間や家族への申し訳なさばかりが募り、人知れずベッドで涙を流した。
そんななか、見舞いに訪れた木下修一朗・天浦分教会長から、あることを提案された。
「一日一人、おさづけを取り次がせていただこう」
昌久は木下会長の言葉を素直に受け、「毎日、新しい人におさづけを取り次がせていただこう」と心に決めた。自らの身体に点滴をつないだ状態で病院内を歩き回り、待合所などにいる人に声をかけた。同じ境遇に置かれた者同士ということもあってか、数多くの人におさづけを取り次ぐことができた。なかには、昌久の声かけを一緒に手伝ってくれる人もいたという。
こうした生活を続ける中で、昌久は次第に自分の心の向きが変わっていくことを実感した。
「おさづけの取り次ぎを始める前は、自分の身上のことばかり考え、不安に苛まれていた。しかし、人のたすかりを願ううちに、自分の身上への執着が薄れ、気持ちも落ち着くようになった。『人たすけたらわがみたすかる』と教えられる通り、人のたすかりを願うことの大切さを学んだ」
入院して半年が過ぎたころ、骨髄移植のドナーが現れることを待つ昌久のもとに、「適合者が見つかった」との知らせが届く。一人の適合者が見つかることさえ難しいとされるなか、昌久には13人ものドナーが見つかった。「親神様のご守護を感じずにはいられなかった」
「どこの病院で手術しますか?」と医師から尋ねられた昌久は、「親神様の一番近くで」との思いから、「憩の家」での手術を希望した。
平成15年5月、「憩の家」で無事に骨髄移植手術を終えた。骨髄が体に定着するまでの数週間、身体的につらい時間が続いた。そんな昌久を励ましたのが、ドナーから寄せられた一通の手紙だった。
提供者の氏名が伏せられた手紙には、骨髄バンクに登録するまでの経緯や、骨髄提供が決まってからの心境、個人情報を知らされていない移植相手への思いなどが綴られていた。見知らぬ人をたすけたいと願うドナーの手紙から勇気をもらった昌久は、徐々に体力を取り戻し、半年後には仕事に復帰できるほどの鮮やかなご守護を頂いた。
「ドナーの方のおかげで、私は無い命をたすけていただいた。この節を通じて、与えられたこの命を、もっと人だすけのうえに使わせていただかなければと、強く思うようになった」
自身の経験を次代に伝え
骨髄移植を乗り越え、再び教会に住み込みながら弁護士としての仕事に精を出す昌久。忙しい毎日を送るなか、以前よりも「親孝行と人だすけ」を意識するようになった。
教会に住み込んだ当初から、木下寿美子・天浦分教会2代会長に「親孝行と人だすけ」に努めるよう仕込まれてきた。身上を通じて、その大切さを学んだ昌久は、兵庫教区の顧問弁護士を務めるなどお道の御用に尽力。その傍ら、休日にはにをいがけに歩き、別席者や修養科生をお与えいただくなど、おたすけにも心を尽くした。
骨髄移植から15年。心配された再発は無く、一時的に体調を崩すことはあっても、大難を小難、小難を無難にお連れ通りいただいた。
70歳で弁護士業をやめた昌久は、現在も教会生活を続けている。一昨年、天浦分教会の歴代会長合同年祭を記念して出版された冊子『にをいがけの大切さ』では、自身がこれまでおたすけに歩いてきた経験をもとに、にをいがけの大切さについて執筆。いまは、今年6月の天浦分教会創立80周年記念祭に合わせて刊行される記念出版物用の原稿に向かっている。
「いまの自分に何ができるかを考え、身上を通じて学んだおたすけの大切さを、次代を担う若者に伝えたいとの思いから原稿を書かせていただいている。これからも、お与えいただいた命を、人だすけに捧げていきたい」
(文中、敬称略)
文=島村久生