おやのことば・おやのこころ(2022年2月2日号)
すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』147「本当のたすかり」
以前、足元の悪い普請現場でうっかり躓いたことがありました。あいにく手を着いた場所に鋭いトタン板があり、右手を11針縫う怪我を負ったのです。自分は足元が見えていないと反省させられました。そしてそれは、体の足元だけでなく、日ごろから、足元の身近で大切なものに目を向けず、蔑ろにしていることへのさんげでもありました。
このような経験は初めてではありません。恥ずかしながら足元の不注意から痛い思いをしたことは数知れず。転倒して肋骨にヒビが入ったときは、寝返りのたびに激痛が走る1カ月を過ごし、諸々の意味で足元に目がいっていないことを思い知らされ、反省の毎日でした。ところが情けないことに、痛みが和らぐにつれ反省の心は薄れ、痛みが全快したころにはすっかり消えてしまいました。
親神様は神意の分からぬ人間に、みちおせ、手引き、手入れといった節を見せてくださいますが、一度で分からなければ繰り返しお見せになります。11針縫った怪我は、傷が深かったため神経に触り、実はいまでも小指に麻酔のかかったような痺れが残っています。しかしながら、この痺れを感じるたびに、自分が諸々の意味で足元をよく見ていないことを思い出し、今度こそ忘れまいと自覚させられます。百パーセント治ることだけがご守護ではなく、この「おしるし」こそ、ありがたい親心と思えてなりません。
(中田)