「信心十分の理あればこそ」- 視点
以前『信心事始』(深谷太清著・学生担当委員会)が発行されたとき、「信心」という言葉に惹かれ、思わず手に取った。
辞書で引くと、「加護を願って、神仏を信じること。また、神仏を信じる心」とある。類語に「信仰」があるが、「信仰」は宗教的なものを信じ尊ぶ自覚的な態度をいい、対する「信心」は、加護を願って一心に神仏やその教えを信じる心をいうと、その違いに言及している。
原典の中で、特に「みかぐらうた」では「しん/\゛」という言葉をもって教えの理が説かれている。
三下り目の「九ッ こゝまでしん/\゛したけれど もとのかみとハしらなんだ」「十ド このたびあらはれた じつのかみにはさうゐない」のお歌では、信心は元の神・実の神へ向けられるべきものと示される。
また、五下り目では「五ッ いつまでしん/\゛したとても やうきづくめであるほどに」と、陽気に満ち溢れた心が肝心であると教えられている。
さらに六下り目では、七ッから九ッにかけて「しん/\゛」という言葉が続き、信心するうえでの心得違いを正し、心の入れ替えを促されている。
「おさしづ」には、「信心信仰、信心十分の理あればこそ、道を通りたこそ。この事情聞き分け。最初とんと難しい日もありた。もうなあと言う日ありたやろ。通りてこそ、後々今の世界。一つ治まりたる処、たんのうしてもうどうでありた」(明治28年7月28日)とある。信心の道を通りてこそ今の世界があるとしたうえで、たんのうの心を治めるよう諭されている。
私たち道の信仰者は、教祖が自らお通りくだされた、陽気ぐらしへ真っすぐにつながる、たすけ一条の道をたどることを第一の目標に据える。だからこそ、天理教を信仰しているということを「お道を歩む」「お道を通る」と表現するのだろう。それが「信心の道」である。
内に向けた信心の鍛錬は、必ず行動となって日常生活に表れ、生活の核となり、他者へ及ぶ。
そんな徳を頂戴できる「信心の道」を、お互いに歩ませてもらいたい。
(永尾)