教祖を慕い尊びて 教祖30年祭 – 教史再彩
モノクロームの教史の1シーンが、AIによって今によみがえる。
その彩色された世界から見えてくるものは――。
信者詰所は、教祖10年祭ごろから徐々に拡充されたが、30年祭では、予想を超える帰参者数に対応しきれず、普通民家の借り入れをもって対応せざるを得なかった。
「三島の地はいうまでもなく、隣接せる布留、豊田、河原城の家々は、何々詰所第三出張所、何々教会信徒臨時宿泊所というような貼紙が、軒ごとに掲げられてある」
(『みちのとも』大正5年2月号から)
教祖20年祭から30年祭までの10年間は、悲喜こもごもの出来事が立て合った。
20年祭の翌年の明治40年には、本席・飯降伊蔵が出直されるという節があったが、41年には、難航していた天理教の一派独立を苦節10年で達成。教団の体制が整備され、国内はもとより海外布教にも熱が入った。婦人会が発足して養徳院が創設されるなど、教内に明るさが満ちた。
大正3年4月には「大正普請」が区切りを迎えた。神殿や教祖殿、北礼拝場などが竣工して全教は大いに沸き立った。
ところが同年12月。“道の芯”として全教を導かれた中山眞之亮・初代真柱様が、病状の悪化により御年49歳で出直された。
こうしたなか、5年1月25日に迎えた教祖30年祭。山沢為造摂行者を祭主として執行され、約15万人の信者がおぢばに帰り集った。
30年祭は、かつてないほどの大盛況であった。丹波市停車場から神殿へ続く道は「恰も人のかけ橋を架したよう」と譬えられた。
また、神殿東西の広場は、早朝から参拝者が詰めかけて身動きも取れないほどで、「蟻の這ひ出づる隙間もなくとか、立錐の余地がないとかいうより外に書きようもない」との記述が残っている。
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30年祭には、大勢の信者が各地から教祖を慕い尊びて、おぢばに帰ってきた。
北海道からの団体500人は、教祖のおそばへ帰れることに喜び勇むあまり、道中の汽車の進み具合さえもまどろこしく感じたという。また、東京での乗り換えの際には、時間がしばらくあったので引率者から市内見物を促されたものの、一同の心にその思いは少しも起こらず、教祖のもとへ一刻も早く帰り着きたい一念で、荷物を抱えて東京の町中を一直線に歩き、乗り換え先の停車場へ急いだという。
迎える親里では、信者詰所の収容力を拡充して年祭に臨んだが、帰参者があまりに多く、寝る場所や座る場所がなくなって、階段にもたれて一夜を過ごす人もあった。とはいえ、誰一人として不足を言う人もなく、むしろ不自由さを誇りとするくらいだったという。
写真は、祭典時の様子を北礼拝場西側から撮ったものである。北礼拝場からあふれそうな教師3,000人と、神苑を埋め尽くす大勢の信者が写っている。真っすぐ殿内を向くその後ろ姿を見ていると、教祖を慕い尊ぶ熱い思いが伝わってくる。