常に神様を見つめて通り一致団結して信心に励む 池ハナ(上) – おたすけに生きた女性
2023・9/13を見る
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家業の石油掘りに勤しむ両親に代わり、家に祀った神様を守り続けたハナ。20年来の眼病をたすけられたことへの感激は尽きることなく、多くの人々を導いた。
今回は、池ハナを紹介します。ハナは安政5(1858)年5月、新潟県新潟市に誕生。幼くして齋梧清蔵・シゲ夫妻の養女となりました。
明治15(1882)年、24歳のとき、20年来の眼病をたすけられて入信。新潟、佐渡の両市で布教し、今日の新潟大教会の礎を築きました。
鴻田忠三郎に始まる新潟の道
新潟の道は明治14年4月、北桧垣村(現・天理市檜垣町)の鴻田忠三郎が、農業指導者として新潟県勧農場へ赴任したことに始まります。同年の暮れ、忠三郎が休暇を取って大和へ帰ると、次女・りきは失明寸前の状態でした。忠三郎と妻・さき、りきの3人は、同村の岡田與之助に導かれておぢばへ帰り、7日間滞在しました。この間に、りきは不思議なおたすけを頂き、感泣した忠三郎は信心する決心を固めます。
お屋敷で勤めたいと思った忠三郎は、県に辞職届を出しますが、なんとしても帰任せよとの厳命です。教祖に伺うと、「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』95「道の二百里も」)と仰せになり、御自らお社やはったい粉、お札などを箱に入れて、背中に担がせてくださいました。こうして忠三郎は明治15年3月17日、にをいがけ・おたすけを決意し、再び新潟へ出発しました。
忠三郎は勧農場の自室にお社を祀り、朝夕おつとめを勤め、常に「みかぐらうた」を唱えていました。ある日、農作物に虫がついて困ると聞くと、畑の真ん中で、てをどりを勤めてお願いしました。それを見た農学生は吹きだして笑いましたが、翌朝、虫はいなくなり、学生はもとより、当の忠三郎も驚いたといいます。
また当時、新潟の街でコレラが流行し、すぐに死ぬ病気と恐れられていました。学生にも罹患者が出ましたが、忠三郎が神様にお願いし、供えた水を病人に吹きかけると、たすかりました。それを聞いた患者の家人もおたすけを願ってきて、忠三郎がお願いすると、いずれもたすかったといいます。
ハナの養父・齋梧清蔵は石油の採掘を生業としていましたが、あるとき重い疝気(せんき)を患い、仕事もできなくなって悩んでいました。そんななか、勧農場にどんな病気もたすけてくれる先生がいるからと、ある人が忠三郎を連れてきます。
忠三郎は3尺ほどの額の裏に神名を記したお札を貼り、これを目標としておつとめを勤めたところ、翌朝、清蔵は立ち上がることができたのです。翌日もお願いしてもらうと、3日目には腰痛も治まり、元通り働けるようになりました。
「神様の姉ま」と呼ばれて
明治15年9月、忠三郎の下宿先に泥棒が入り、お社だけを残して、布団から家財道具まですっかり盗まれてしまいます。それを聞いた清蔵が自宅へ招き入れ、その日から忠三郎は齋梧家で寝泊まりすることになりました。
忠三郎は朝3時に起きて、家の前を流れる信濃川に飛び込んで身を清め、お社の前でてをどりを勤めました。熱心な信者たちも忠三郎を真似て、川で水浴し、てをどりをしました。初めは水の冷たさで体が震え、何を唱えているのか分からないのですが、十一、十二下り目までくると、体が温まり、地歌もはっきりしてくるのでした。そのなか不思議なたすけが相次ぎ、おたすけを願う人が3日間に500人もやって来たことがありました。
ハナは4歳のころから目が不自由でした。一時は失明するなどして20年来患っていましたが、24歳のとき、忠三郎にお願いしてもらうと、きれいに見えるようにご守護いただきました。
あるとき、大和から忠三郎宛てに手紙が届きました。お屋敷の容易ならぬ状況を知った忠三郎は、同年12月、引き留める信者を説得し、大和へ帰りました。忠三郎の新潟布教はわずか9カ月間でしたが、信者たちは齋梧家を中心に信仰を続けました。
ハナはたすけていただいた感激が忘れられず、お社の前に座って神様にお仕えしました。おたすけを願う人が来れば、一緒にお願いしました。夜、信者たちが集まれば、共に「みかぐらうた」を歌い、てをどりを勤めました。
当時は女性信者が多く、ハナは「神様の姉ま(お姉さんという意味)」と呼ばれ、信者たちを導く立場になっていました。女性たちは仲が良く、ハナを立て、一致団結して信心に励みました。その一方で、踊り、歌い、しゃべり、飲食するなど、女性たちの発散場所にもなっていたようです。その中でハナはただ一人、常に神前に座り、神様を見つめて通りました。
鴻田忠三郎が大和へ帰る際、ハナは忠三郎と、こんなやりとりを交わしています。
「先生が大和へ行ってしまったら、私の目は元の見えない目になるのではないでしょうか」「そんなことはない。心一つや。私がいようといまいと、あんたの心一つや。神様を見つめて通りなさい。他に心を移すでない。ほしい、おしい、かわいいと、うらみ、はらだち、これが埃や、と仰せられる。人間を見るでない。神様の、世界たすけたいという心を自分の心にして通らねばならん」
以後、ハナはこの言葉を心の中で繰り返したそうです。
池四郎平との結婚
明治17年、新潟新聞に「流行神の金儲け」といった記事が出ました。清蔵は入信以来、おたすけを願う人や信者たちに、わが家の米から味噌、醤油、炭、薪まですべて与え尽くしてきたというのに、“儲けている”と言われたことに無性に腹が立ち、参拝者を一切お断りしたことがあります。それでも遠くからも参拝者がやって来るので、ハナは気の毒に思って裏口から参拝させ、市内の信者であれば、訪ねていって共にお願いしました。
そのころ、池四郎平が訪ねてきました。差し込み(疝痛)を患い、新潟病院の院長に診てもらいましたが、苦痛は治まらず、人に勧められてやって来たのです。
参拝者を断っていた清蔵ですが、四郎平には好感を抱き、家の中へ案内します。平癒をお願いすると、すっきりと痛みが消えました。
その後、四郎平は仕事で上京の途中、馬上から川へ転落したことがもとで、手足の自由が利かなくなりました。近くの温泉場で1年間療養した後、浅草の観音様に祈願するなどして、さらに1年を過ごしますが、手足は治りません。そこで新潟へ戻り、清蔵にお願いしてもらうと、わずかの間に自由が叶うようになりました。このとき四郎平は、清蔵に「最早一刻も躊躇すべき時ではない。私は熱心に信心させてもらいたいと思う。この神様を任せてはくれまいか。私に守らしてはくれまいか」と申し出ました。清蔵は承諾し、話は決まりました。明治21年12月31日の夜のことです。
明治22年4月、熱心な4人の女性信者がおぢばへ帰りました。これが、新潟の信者で最初のおぢば帰りだといわれています。ハナは、養父母のこと、また日々やって来る新しい信者のことを思うと、留守にするわけにもいかず、新潟に残りました。
翌年11月、清蔵とシゲが相次いで出直し、齋梧家はハナ一人になりました。そこへ、前年から故郷の佐渡へ行っていた四郎平が帰ってきて、以降、四郎平が新潟の信仰の統率者になっていくのです。
明治24年1月20日、四郎平とハナは、信者たちに懇願されて結婚します。四郎平41歳、ハナ33歳でした。しかし、四郎平は池家の相続人、ハナは齋梧家の相続人であったため、当時の法律上、戸籍を入れることができませんでした。このことが、ハナの一生に大きな影響を与えることになります。
(つづく)
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)