宗教の「公共性」をめぐって – 視点
2023・9/20を見る
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世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる対応で、文部科学省は、来月にも教団の解散命令を請求する方向で調整中と報じられている。
解散請求の焦点となるのが、宗教の「公共性」をめぐる問題である。宗教法人法第81条の「解散命令」には、「公共の福祉を害する」行為や「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為」をした場合などが、その対象となり得るという。
この「公共の福祉」の具体的なイメージは、にわかに抱きにくい。実際それは明確な内容を規定するものではなく、むしろ「公益」や「社会全体の利益」といった、漠然とした捉え方しかできないものだからだ。旧統一教会の例は措くとしても、公共の福祉のこうした性格には、現代における宗教と社会の関係性を探る一つの鍵がある。
公共の福祉にほぼ相当する表現に「公共性」という概念がある。宗教が公共性を持つことは、政治の領域では問題をはらみながらも続けられる一方で、社会福祉や医療などの広範な領域では、むしろ積極的に捉えられている。要するに、宗教を語る際にイメージされる公共性とは、宗教に対する社会や世論の期待をおぼろげに映し出す“鏡”の役割を果たしていると言えるかもしれない。いずれにせよ、近代以降の民主国家における宗教は、常に公共性との関係の中で評価される現象なのである。
歴史的文脈も内容も異なるが、天理教では、一派独立運動さなかの明治36(1903)年に、「神道本局所属天理教会禁止解散請願書」が衆議院へ提出されたことがあった。これを受け、一連の対応に当たっていた松村吉太郎が上京する際に伺った「おさしづ」では「さあ/\まあいろ/\の話、元が分からんから元を顕わする」と、元を明らかにする意義を強調され、さらに「さあ/\直ぐ/\行って来るがよい。どんな事も話して来るがよい。隠し包みは、すっきり要らんで、要らんで」(明治36年5月29日)と諭されている。
この大らかで真っすぐなご神言を、いまあらためて心に治め、同時に、一派独立の苦闘を支えた初代真柱様や先人の艱難苦労にも思いを馳せたい。
(島田)