耐え忍ぶ精神と優しさで おたすけに一身を捧げ 池ハナ(下) – おたすけに生きた女性
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晩年、信者から「池奥様」と慕われたハナ。夫である四郎平から数えて4代の会長に仕え、二度の教会移転普請をつとめ上げた。
「鴻明講」から教会設置へ
明治24(1891)年春、池四郎平は初めておぢばへ帰り、鴻田忠三郎に会ってハナと結婚したことを報告すると、忠三郎は大いに喜びました。
四郎平が新潟へ戻ると、齋梧家に入りきれないほど信者が増えていました。大きな貸し家を探していると、蒲原浄光寺の番僧宅が空いているというので、そこへ移りました。
翌年3月、ハナは四郎平と共に初めておぢばへ帰ります。10年ぶりにハナと再会した忠三郎の喜びようは大変なものでした。このとき四郎平たちは、本部に講名のお許しを願い、鴻田の一字を冠する「鴻明講」という講名を頂きました。
翌年の春、再びおぢばへ帰ってきた四郎平に、忠三郎はこう諭しました。
「私が明治16年正月、新潟から大和へ帰ってきた時、教祖は『北の国は一本の柱、北半国は一本の柱にまかせる』と仰せになった。教祖がそれだけ、御心をかけてくだされていたのだ。その御心にお応えしなければならない。しっかりやってくだされや。私はおぢばにいて、かんろだいに、新潟の皆さんの活躍をお願いしております。みんな心を結び合ってやりましょう」
忠三郎の後を受け、養父母と共に信仰を守ってきたハナは、この話を聞いて一層勇み立ち、なんとしても教会設立を、との思いを強くしました。
明治27年6月17日、ハナはおさづけの理を拝戴します。当時、信者宅は1千軒を超え、朝夕の参拝者も収容できないほどでした。教会設置を見据えて移転先を探しますが、結局、齋梧宅を増改築することに決まりました。
このとき四郎平は、初めて信者にお金のことについて相談しています。参拝者は多くいましたが、信者たちは「講社金」として2銭を出せばよいことになっていました。祭典日、信者たちが赤飯やお神酒をたらふく頂くので、差し引けば赤字になり、不足分を池夫妻が賄っていたのです。増改築費も大半は池夫妻が捻出し、信者たちには心次第、精いっぱいの寄進を頼むと伝えました。四郎平たちは、信者に無理をさせたくなかったのです。こうして土地建物は整い、教会設置請願の準備にかかりました。
3年間で四度の請願を経て
明治28年10月に新潟支教会設置の願書が調い、四郎平がおぢばへ出発するとき、ハナにこう言いました。
「教会請願するには2千戸以上の名簿がないと駄目なそうだから、これからおミヘさんと一緒に、新津へ行って信者をうんとつくってくれないか」
ハナは吉澤ミヘと共に新津でおたすけに歩き、13日目には520戸の信者ができました。二人は泣いて喜び、すぐにおぢばの四郎平へ名簿を送っています。四郎平は大いに驚き、同行した人たちと賛嘆したそうです。
同年11月13日、おぢばで教会設置のお許しを頂きました。この後、地方庁の認可がなかなか得られず、「四郎平は会長の器にあらず」などと非難する信者も出てきますが、四郎平はそれを問題にせず、一意専心、神前にて拝み続けたといいます。翌年、内務省訓令が出されると、巡査が張り込み、参拝者の身元を調べ始めました。参拝者は次第に減り、教会の維持費や請願の費用のほとんどを池夫妻が出したそうです。
そのころハナは、新発田へ布教に出ていました。明治30年正月、三度目の請願書を提出した際に、四郎平はハナを訪ねて、次のような会話を交わしました。
「ハナや、今度は太鼓を打たせるぞ。神様もお喜びになるだろう。もう少しのふんばりだ。辛抱してくれ」
「そんなことを言うて、私を喜ばそうとなさるのでしょうが、また駄目ですよ」
「そんな心細いことを言うでない。おまえは神様のお心が分からんのだ。神様は、我々の心をつくってくださるために、苦労させてくださるのだ。有り難いことだ」
三度目も却下されますが、四郎平はなおも深く決心して請願を進めました。すると、四度目にして認可が下ります。ハナは新発田の集談所で認可の快報を知り、信者たちとわっと声を上げ、泣いて喜び合いました。3年という長い年月の辛抱でした。信者は一人も来なくなり、草鞋を買うにも苦労する日々を乗り越えて、新潟支教会は設置されたのです。
結婚から34年目の入籍
教会の門には真新しい看板が掲げられ、鉦や太鼓をたたいて、おつとめができるようになりました。人々の心は勇み、布教活動も懸命に行われます。ハナは月次祭の翌日には、お下がり物の小包を200余りも作り、3、4日かけて信者宅一軒一軒に配り、神様のお話を説いて回りました。
四郎平とハナは明治24年に夫婦になりましたが、前述の通り、戸籍上の結婚ではありません。そのため、公式の会合に夫婦として出席できないこともあり、四郎平は世間でとかく噂されていることが気にかかっていました。同36年、二人は相談のうえ、別れて暮らすことにします。
夫の元を離れたハナは、45歳で佐渡市外海府へ布教に出ました。このとき四郎平は、自分の故郷である佐渡へ案内し、手を引いて海辺を歩きました。これがハナにとって生涯の思い出になり、晩年このときのことを語ったそうです。
明治41年と43年に大病を患った四郎平は、はっきり別れるべきなのかと考え、ハナを呼んで相談しました。佐渡でのおたすけに生きがいを感じていたハナも異存はなく、「私も、私一人となって、心おきのう神様のお仕事のお手伝いをさせてもらいます」と答えました。
佐渡での布教中、ハナは春秋の大祭には、船で7時間かけて新潟支教会へ戻っていました。あるときハナは、四郎平に「どうして一人でおいでですか。新しい妻をおもらいくださいませ」と結婚するよう促したそうです。大正元(1912)年、四郎平は本部の先生の勧めで、別の女性と結婚します。四郎平60歳、妻は38歳でした。
一方、ハナは北風の吹きすさぶ厳寒の地、外海府で17年間布教を続けました。不思議なたすけが随所に現れ、おたすけに歩く信者もできて、2カ所の教会を設立しました。
四郎平は病のたびに体力が衰え、大正7年7月、またも重い病を患います。死期が近いと悟った四郎平は妻を呼び、「誠に身勝手なことを言うてすまないが、あんたはまだ若い。これからの人生があるから、私の息のある間に別れてほしい。私はハナに看取られて出直したい」と伝えました。妻は泣く泣く離婚し、四郎平はハナを佐渡から呼び寄せました。
同年8月11日、四郎平は「ハナは、この教会の元始まりの人だ。初めから命を捧げてくれたんだ。どうか大切にしてやってほしい。頼む」と言い残し、68歳で出直しました。
◇
その後、ハナは齋梧家を養子・純二に譲り、大正14年10月13日、池家の養女となりました。結婚して34年目の入籍でした。昭和5(1930)年、教会が山木戸へ移ってからも、ハナは月次祭のお下がり物を配って回り、温かく信者を丹精したといいます。そして昭和8年5月3日、76歳で出直しました。
ハナは、20年来の眼病をおたすけいただいた感激を胸に、鴻田忠三郎の後を受けて、信仰を守り抜きました。どんなときも神様を見つめ、世界一れつをたすけたいとの神様の心をわが心として、教祖のご期待にお応えしようと努めました。耐え忍ぶ強い精神と優しさをもっておたすけに励み、新潟の道の土台を築いて、その生涯を終えたのです。
文・松山常教(天理教校本科実践課程講師)