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子供にものを教える適任者は? – 心に吹く風の記


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4月。新入学の小さな子供たちが、ランドセルを背負って登校していきます。背負っているのか、背負われているのか分からないような後ろ姿が危なっかしく見えて、思わず「気をつけて!」と声をかけたくなります。

絵・おけむらはるえ

子供のころは「子供は社会の宝」といわれても、「ボクが宝?」と全くピンとこなかったのですが、今になって分かります。やはり子供は社会の宝物です。すくすくと心豊かに育ってほしいものです。

言うまでもなく、子供は周りの大人からいろんなことを吸収して育っていきます。良いことも、時には悪いことも、周りから情報を吸収しています。学校、地域、家庭、すべての環境が、その学びの場なのですから、どこで見られてもいいように、大人は良い見本でありたいものです。

さて、私は日ごろから、子供に接する大人の一人として、気をつけておきたいと思っていることがあります。それは、子供にいろんなことを教える適任者はどういう人なのかということです。知識や経験が豊富で、何でも知っている人でしょうか。私は、実は違うと思っています。

少し前のパソコンの取扱説明書、あるいはスマートフォンの取扱説明書を思い出してみてください。分厚くて、事典のようなマニュアルでした。文字が小さくて意味も分かりにくく、最初に全部読むのはとても無理。とにかく使いながら覚えていった記憶があります。最近は、それすらもなく、機器の中にデジタル化されて入っていることが多いようです。

そもそも機械もののマニュアルは、どれも難しいものです。なぜ、ああいう難しいマニュアルになるのでしょう。それは「パソコンやスマートフォンのマニュアルを書く適任者は、ほかの誰よりもパソコン、スマートフォンに詳しい人である」という誤解から生まれているのだと思います。

こう書くと、「えっ、違うの?」と思われるかもしれません。いや、合っています。詳しくなくては教えることはできません。しかし、それだけでは足りないのです。

実は意外にも、私たちが知れば知るほど失うものがあります。それは〝知らない人の目線〞です。コンピューターを知らない人、スマートフォンを知らない人が、初めてそれらを触ったときに抱く緊張感のようなものです。

詳しく知れば知るほど緊張感はなくなり、その知識はいつの間にか当たり前になる。知っていることを全部教えたくなり、説明も、より詳細で複雑になる。その結果、一番伝えねばならないものが伝わらないのです。それは、まずは「怖くはありませんよ。大丈夫ですよ」という安心感みたいなものであり、最低限これだけ知っておけば使えるという基本の機能なのです。

ですから、使い方を説明する適任者の条件は、「知識が豊富なこと」に加えて、「素人の視線を忘れていないこと」になります。

思い出してみてください。子供のころ、初めて卵を割ったときの緊張感を。

「失敗したらどうしよう」
「うまく割れなかったらどうしよう」

そして恐る恐る、卵をまな板や器の縁にコツンコツンとぶつける。力加減も分かりません。失敗した人もいるでしょう。何度か繰り返すうちに、その力加減を覚え、上手に割れるようになる。誰しも、そういう経験をしているはずです。最初から卵をうまく割れる人は、珍しいのではないでしょうか。

であるならば、子供にものを教える最適任者は?

そうです。「自分が子供だったころのことを忘れていない人」です。子供のころ何を知りたかったのか、何をしてほしかったのか、どういう言葉で励ましてほしかったのかを忘れていない人だと思います。

「そんなことぐらい簡単だよ」「そのうち分かるよ」ではなく、「分かんないよね、不安だよねえ。その気持ち、分かるなあ」と言ってやれる大人でありたい。子供は、そんな信頼できる大人から多くのことを学ぶのだと思います。


茶木谷吉信(1960年生まれ・天理教正代分教会長・教誨師・玉名市元教育委員)


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