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寛政十年四月 大和の村里に中山みき様ご誕生 – 教祖誕生祭


田植えを終えた三昧田界隈。東の山並みから朝日が昇る(中央右寄りが、教祖ご生家のある天理教三昧田分教会)

天理教教祖・中山みき様は、寛政10年(1798年)4月18日、大和国山辺郡三昧田(現・天理市三昧田町)にお生まれになりました。

そのときの様子は、次のように記されています。

御誕生の四月十八日は、もとより当時慣用の陰暦によるものであって、これを太陽暦に当てはめると、六月二日に当たるから、丁度、若葉の萌え出る初夏の候である。しかも御誕生の時刻は夜のほのぼのと明けはなれる頃と伝えられているから、まことにすがすがしい初夏の朝明けに朗らかな初声を挙げられたのである。

その御誕生の地、三昧田というのは、(天理教教会本部のある) おぢばの南方約二十余町のところにある四十戸内外の村落で、未だ時代の風波も直接には伝わらない、きわめて平穏な変化の少ない村里である。又その生家なる前川家は百姓家とはいえ、地方の顔役であったらしく、領主である藤堂家より無足人として苗字帯刀を許されていた。……日頃徳望の高い家柄であっただけに、この喜びはたちまち近隣にも伝わり、村中挙って寿ぎ祝ったに相違ない

中山慶一著『私の教祖』〈道友社刊〉

教祖は、親なる神様が人間を創造されたとき、母親となられた魂のお方と教えられます。その魂にふさわしく、幼少から慈しみ深く、信心深い方でした。

13歳で庄屋敷村(現・天理市三島町)の中山家に嫁がれてからも、嫁として主婦として、申し分のない働きぶりを示されただけでなく、慈悲深く善行を施し、近隣の人々から敬愛されたといいます。

そして天保9年(1838年)、41歳のとき、親神様の啓示により、「月日のやしろ」(親神様が御身に入り込み、その思召を伝える立場)に定まられました。

以来、教祖は、親神様のお心そのままに、子供である一れつ人間を優しく導かれ、互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の生き方を、自らお示しになったのです。

天理教教会本部では毎年4月18日、教祖がお生まれになった日をお祝いして「教祖誕生祭」が勤められます。