私たちが願うから – 成人へのビジョン4
「かみさまがねがいをかなえてくれた!」。そう言って5歳の娘は跳びはねました。いつも決まって、おままごとをして遊ぶ娘に、妻がおもちゃのレジをプレゼントしたのです。
「わたしねー、ずーっとかみさまにおねがいしてたんだ!」
僕はそれまで、娘が「ずーっとおねがいしてた」ことを知りませんでした。でも、さすが神様。娘のことも見ぬき見透しです。
人はそれぞれ願いをもって生きています。大小さまざまな願いが人の数だけ存在します。願いを叶える方法も人それぞれです。成功者に学ぶ、ネットで調べる等々。果たしてその中で、神様に願う人はどれくらいいるのでしょう。また願いが叶ったとき、人は「神様のおかげ」と思うのでしょうか。
僕は「いい文章を書きたい」と願っています。それが叶ったら神様のおかげでしょうか。それとも自分の努力の賜物か。あるいは環境に恵まれたのか。誰もが納得できる答えを出すのは難しそうです。ただ僕が思うのは、それは「かしもの・かりものの理をどれほどの深みから感じているか」によるだろう、ということです。
先人は高慢のほこりを次のように説かれます。
(諸々の道理が分かるのは)神様の御守護を厚く頂いて居ればこそわかるので、自分の力ではない
諸井政一『正文遺韻抄』
恩師は、こうも言いました。
「努力できるのも、ご守護があってこそ」。
いったいそれは、どれほどの境地なのでしょう。
一つだけ確かなことは、娘が願ったからこそ妻が動いたということです。僕は、願うのは“人の仕事”だと思います。人は願うことを忘れてはいけない。願うからこそ何かが始まる。願うからこそ、学びも、奇跡も、失望も、与えられる。きっと、心の成人という一番のご守護は、人が何かを願うところから始まるのでしょう。
私たちはもっと素直に神様に願っていいのではないだろうか。人が「たすけたまへ」と心から唱えるとき、幼な子のようなピュアな心持ちになっていると思います。
私たちの願いを、神様はきっと楽しみにしてくださっています。
可児義孝