「雨乞いづとめ」を願い出た当時の人々の切実な思い – 天理参考館 第100回企画展「教祖140年祭記念 幕末明治の暮らし」記念講演会
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既報の通り、天理参考館(三濱靖和館長)は第100回企画展「教祖140年祭記念 幕末明治の暮らし」を3月9日まで開催している。2月13日には、同展の関連行事として記念講演会を開き、幡鎌一弘・天理大学人文学部教授が「幕末・明治の三島、布留、内山」と題して登壇した。
幡鎌教授は、企画展の展示資料などをスクリーンに映しながら、幕末から明治期にかけて現在の天理市内にあった三島村、布留村、内山永久寺の時代状況に応じた変遷や社会情勢を解説した。
その中で、明治10年当時、三島村と中山家のあった庄屋敷村は田地が互いに入り組んだ状態にあり、同年3月19日に両村が合併して三島村となることを願い出、認可されたことに言及。このとき作成された『三島村庄屋敷村合村願』(天理市三島町所蔵・同展展示品)の捺印欄には、両村全員の名前が連なっており、教祖の長男・秀司様の名前と印が確認できると述べた。
水利権を巡る争いの背景
続いて、「当時、地域一帯には田畑が広がり、用水は河川やため池に依存していたため、旱魃による水不足は深刻な問題になっていた」と、幕末から明治期にかけて各村で水利権を巡る争いが絶えなかった背景について説明した。 その中で、布留川の本流と支流の分岐点である「一の井の分水」では、天正12年に南流を勾田村と田村、北流を三島村が権利を持つ取水制度が設けられ、渇水時には順番に札を立てて水を引く「番水」と呼ばれる仕組みが整備されたと指摘。天理市内には現在も石垣で造られた「一の井の分水」が生きていると紹介した。
さらに、その後も水利権を巡る争論は続き、延宝8年に布留川の支流の一つである三島川を巡り、田井庄村と三島村・河原城村が対立した際に作成された「三島川裁許絵図」(同)には、樋や井手のほか、水車などが書き込まれていると解説した。
そのうえで、明治16年には、日照り続きで万策尽きた三島村の人々の願い出により、天理教の「雨乞いづとめ」が勤められた事例にふれ、「当時の人々の水に対する切実な思いを感じるとともに、天理教の歩みには、この水の問題が密接に関わっていたことがうかがえる」と所感を述べた。
このほか、小島村で庄屋を務めた東田家当主が、身近な出来事から社会情勢までを克明に記した史料『永代記録』(天理市所蔵・同)などをもとに、当時の人々の宗教と信仰について紹介した。









