スポーツの持つ力が敗戦国に与えた希望 – 日本史コンシェルジュ
1948年、ロンドンで開かれた戦後初のオリンピックに、日本の参加は叶いませんでした。38年に決定していた東京五輪の開催を返上したことに対する制裁措置でした。このとき、もし出場していれば金メダル確実といわれた選手がいます。古橋廣之進。のちに「フジヤマのトビウオ」と呼ばれる人物です。
日本水泳連盟は悔しさを晴らすべく、ロンドン五輪の競泳決勝と同じ日に、日本選手権を開きました。1500メートル自由形での古橋選手の圧勝に日本中が熱狂。彼の記録は、ロンドン五輪の金メダリストよりも40秒も速かったのです。
ところが、このとき日本水泳連盟は国際水泳連盟から除名されていたため、世界記録は幻に――。いや、それどころか「日本のプールは距離が短いに違いない」「ストップウォッチが壊れていたのだろう」と海外メディアは報じたのです。戦争に負けるということは、こうした屈辱を味わわされることでもあるのですね。
翌年、古橋選手の実力を世界に示すチャンスが訪れます。ロサンゼルスで開催予定の全米水泳選手権に、日本チームが招待されたのです。日系二世のフレッド・イサム・和田が、自宅に選手を泊め、練習先への送迎も買って出ました。正子夫人も手料理で選手をもてなします。それは費用を切り詰めるためでもありましたが、「日本人を泊めるホテルがない」という切実な事情もあったのです。敵国・日本のイメージが、米国内にまだ色濃く残っていたからです。
こうして迎えた全米水泳選手権――。1500メートル自由形予選A組を制したのは橋爪四郎。ロンドン五輪の優勝タイムを約20秒上回り、世界記録を樹立しました。どよめきがやまぬなか、予選B組がスタートすると、ボルテージは最高潮に達します。異次元の泳ぎを見せたのは古橋選手。彼は橋爪選手の記録を16秒縮め、あっさりと世界記録を更新しました。翌日の決勝は大接戦の末、古橋選手が1位、橋爪選手が2位に。そして3位には田中純夫が入り、なんと日本人が表彰台を独占したのです。
「和田さんはじめ日系人の皆さんのおかげ」と感謝する選手たちに、和田さんは告げます。「お礼を言いたいのは、私たちのほうです。昨日までジャップと蔑まれてきた私たちが、一夜にしてジャパニーズと呼ばれるようになりました。本当にありがとうございました」
スポーツの持つ偉大な力が、敗戦に打ちひしがれた国民に勇気と希望を与えたのです。
白駒妃登美(Shirakoma Hitomi)